底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自由において私と他人は一蓮托生

私が自由であるためには

私が私を自由だと言えるためには、私一人だけが自由であるのではダメである。自由とは他からの強制を受けないということであるから、例えば目の前にひどく困っている人が出現すると、それだけで私はもう自由ではなくなってしまう。その人を助けるか助けないかの二択へと、事態は強制的に持ち込まれてしまうからである。二択の中から選ぶ自由はあるが、二択の外に出る自由はもうない。それは例えるなら、銃口をこめかみに突き付けられ、言う通りにするか死ぬか選べというのと同じ状況だ。これを自由と呼ぶのはあまりに鬼畜であろう。だから私が自由であるためには、私の人生に出現する全ての人に、何にも困ることなく自由であって貰わねばならないのである。




自由において私と他人は一蓮托生

この意味で私と他人は一蓮托生である。私の自由は他人の自由の上にしか成り立たないので、私は自分が自由になるために、少しでも他人が自由であれるように努めなければならない。強制的な二択に持ち込まれないために、他人が困ることのない社会を築いていかなければならない。できるかどうかは置いといて、少なくともそれに向かう姿勢を持たなければ、私はいつまでも真に自由であることはできない。用意された選択肢の中から選ぶのでなく、選択肢すら自分の手で選べる。それこそが自由なのであるから。




脅迫されている人に自由はあるのか

銃口をこめかみに突き付けられ、言う通りにするか死ぬか選べという状況でもそれは自由だ、とする道もあるにはある。二択でも、選ぶことは一応できたのだから自由だったでしょ!と口で言うことはできるし、矛盾する点もそこにはないであろう。ただやはり人間の感情的に納得するのはかなり厳しいものがある。そんな状況に陥っている人は絶対的に「被害者」と呼ばれるのがいい証拠だ。酷な二択を突き付けることは今日の社会においては立派な犯罪行為であり、脅迫されている人にも自由があったなどと言うことは決して許されていないのである。




神にも奪えない自由

自由には抜け駆けが存在しないのだ。抜け駆けで得た自由はどうしたって不自由に成り下がる。目の前に起こる全てを無視できるというのなら、或いはそれでも自由でいられるのかもしれないが、現実においてはそんなの無理であろう。だから、やはり一人でも多くの人が自由で生きられるように自分のできることをしていくしかない。遠回りのように思えるかもしれないが、堅実な方法はそれしかないのである。もちろん逆側にアプローチできるなら、するに越したことはない。銃口を突き付けられていても自分は自由なのだと覚悟を決められるのなら、その人生の自由はもはや神にだって奪えはしないだろう。

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