底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

他人に求めるものは救済である

仕事やめることにした

二か月後に今の仕事をやめることにした。まだ先のことは決まっていないが、十月で二十五歳になるということもあって、ひとつの区切りとして環境を変えようと思ったのだ……というのは建前で、本当は今の職場に色々思うことがあり、溜まりに溜まった結果耐えきれなくなってやめることにしたのである。

 

 

あれ?私いらなくね?

職場にこんなことを求めるのは間違っている、という人もいるかもしれないが、私は絶対に職場には「自分が役にたっている」という実感を求める。いや職場だけではない、およそ全ての人間関係に私はそれを求めている。少なくとも「お前は必要ない」と感じる環境に身を置き続ける理由は私にはない。今の職場に戦力外通告をうけた訳ではない、むしろその方がまだよかったと思う。ただ自然に私に重要な仕事が回ってこなくなったのであり、ただ自然に私が雑務をこなす役割になったのである。それは誰がそう仕組んだのでもなく、誰に悪意があったのでもなく、ただそうなったのである。職場の誰しも普通に優しい。誰かに「お前いらなくね?」なんて言われたわけではない。私が勝手に一方的に「自分のいらなさ」をそこに見出してしまったのだ。

 

 

他人に求めるものは救済である

私は理由もなく人の役にたちたいと思うような善人ではない。無性に人の喜ぶ顔が見たいと思うようなお人好しでもない。ただ自分自身に価値があると思いたいがために他人の役にたちたいのである。人生に意味はない。自分が存在することにも理由はない。神がその苦しみを和らげてくれることは決してない。その苦しみから解放してくれるのは常に他人である。他人だけが私に生きる理由と、生きていく目的をくれる。他人だけが私の実存をなかったことにしてくれる。他人と向き合う時、私は実存する者から「その人にとっての私」という価値ある存在に変貌する。私が他人に求めるのはいつもその救済である。他人に必要とされなくなるということは私にとって再び実存へと還ることを意味する。私には実存する者としての苦しみに孤独に耐える精神力はないし、耐える理由も持ち合わせていない。

 

 

一ヶ月ニートできるやん

ちょうど二十五歳になる節目にこうなったのは偶然であろう。だがいい機会である。半分強がりな気もするが自分の人生や価値観を見つめ直すきっかけになったのも事実である。幸い消化されていない有給休暇が一ヶ月近くあるらしい。大人になって人生を一ヶ月もお休みできる機会はそうそうないはずだから、これからをどうするのかきちんと考えて、アラサーに向けて再出発していきたい。

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