底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自覚について考える

自覚の力は凄まじい

誰かにイライラしている時、相手から「イライラさせてるよね、ごめん。」の一言が聞けるだけで、そのイライラは嘘みたいにスーッと引いていく。「自覚」の力はかくも凄まじい。事態が何も改善されなくとも、相手が自分の置かれている状況をちゃんと認識しているとこちらが思えるだけで、あれこれ気にしていたものが途端にどうでもよくなっていき、心は落ち着きを取り戻す。なぜそうなるのか。それは相手が自覚によって自分の世界の中へと入ってきてくれたからである。つまり、私と同じ認識の仕方で相手が相手自身を認識してくれているのだ。その同じということが何よりの慰めとなるために、易々と相手を許せてしまうのである。




認識のズレの解消

shikouzakki.hatenablog.com誰でも自分は自分として存在している。それは他の如何なることにも勝る各人の人生における最重要事項である。それこそが人生の土台であり、むしろ人生そのものだと言っても過言ではない。しかし「誰にとっても」そうであるために、人と人の間には常に認識のズレが生じている。私にとっては私の自分が最重要であるし、他人にとっては他人自身の自分が最重要となる。私は他人の自分を最重要とすることはできず、もちろん逆も同じである。自覚というのはつまりこの原理的な認識のズレを解消したように見せる行為なのだ。相手が相手自身の自分を一旦置いといて、ただのひとりの登場人物として、私の認識に合わせて(私の)世界に現れる。(私にとっての)本来の世界のあるべき姿とは「元々」そうなのである。




自覚は一緒に真実を見ること

私が世界を認識する。その行為には間違いが存在しない。多数が辛く感じるものを酸っぱく感じるのだとしても、酸っぱく感じることは誤りではなく、ただ私の味覚がそうなっているというだけのことである。私が感じることは定義により私が感じたそのままが一番正しい。他人を認識する場合にもそれは同じである。他人をどう見ていようとも、それが他人自身の自己認識とどれだけかけ離れていようとも、私が見た他人がそのまま(私にとっての)他人の真実なのだ。その(私の)世界の真実を相手も一緒になって見てくれることがここでの自覚の意味である。




自覚は橋渡し役

さっきから、私のとか私にとってのという言葉を括弧に入れて書いているのは、私の世界とただの世界とは同じものだからである。私の世界以外の世界を私は見たことがない。当たり前だ。見ることができた瞬間にそれは私の世界になるのだから。それでも他人の世界もあることをなぜだか私は確信している。それはどこまでも想像の産物でしかないけれど、でもそのことによって他人にとっての私の世界もきっと同じようにそうあるのだろうと分かる。そのお互いには見えていない世界と世界を上手く繋ぐために、自覚は存在しているのかな。たぶん。

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