底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

当たり前になって欲しいから当たり前として生きていく

感謝と同情

当たり前なことに感謝しなさい。そう教えられてきた人は多いのではないかと思う。食べ物しかり、自然の環境しかり、人との関りしかり、とにかく当たり前に見えることは実は全て当たり前ではないから感謝の心を持ちましょう、ということなのだろう。これ感謝に留まることができるのなら大変に良い教えである。何ごとにも感謝できるというのは言わずもがな人として素晴らしい。ただ、その先にまで踏み入ってしまうと事態は徐々に変質してくる。その当たり前ではない有難いことを享受できている自分はつまり恵まれているのだと思う辺りまで来るともう結構際どい。その思いは裏返すだけで「それがない人は可哀想」という一方的な同情を生み出すからである。




当たり前とすることは悪いことではない

何かの当たり前に感謝するということは、その何かを当たり前としては扱わないことを意味する。人は文字通り「有難い」ことにこそありがとうと述べるのだから、有難いのではない当たり前と思うようなことには、そもそも感謝することができない。常識は守って当たり前。だから我々は常識を守っていない人を不快に思うことはあっても、常識を守っている人にいちいち感謝の念を抱いたりはしない。でもこれは全然悪いことではない。むしろ当たり前とされているからこそ、人は意識すら必要なく自然にそれを守っていくことができる。感謝することは、却ってそこに水をさしかねない行為なのである。




何かを当たり前とすることは現にそれが当たり前だと言っているのではない

恵まれてあるようなことを当たり前とすることに大抵人はよい印象を抱かない。それはやはりその当たり前を持っていない人が存在するからである。持っていない人から見れば、それを当たり前と言うなら持っていない自分は一体なんなんだ?という問いが生まれること必至である。だが何かが「現に」当たり前でないことと、何かを当たり前と「する」ことは、実は全然関係のない別の事柄なのである。




当たり前になって欲しいから当たり前として生きていく

世界中にいる全ての人間が自由に穏やかに自分の人生を全うできることは当たり前とされるべきことだが、しかし現に世界の多くでは未だそうはなっていない。それならもうそれを持っている人、既にそういう風に人生を送れる人がやるべきこととは一体なんだろうか。持っていることを有難いと思い感謝する一方で、持っていない人に同情を寄せて哀れむこと?それを悪いとは言わないが、でも最善ではないと思う。今の自分の人生を当たり前として生き抜く努力をすることなのではないか。それが世界の当たり前になって欲しいからこそ、有難い気持ちや哀れに思う心は封印して、他でもない自分がまさにそれを当たり前として扱って生きていく、いつかはその当たり前の輪が世界中に広がっていくと祈りながら。

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