底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

究極の個性を探し求めて

今日は一段とぶっ飛んだ話をしています

人には個性がある。その個性は生まれる個体の遺伝子や育った環境で身に着けた考え方、生活習慣なんかによってあるわけだが、それらが他人と違うのは全て必然ではないだろう。「なぜか」現にそうなっているだけである。別に皆が皆同じ顔同じ背格好同じ考え方で同じ生活習慣をしている世界は普通に想像できるし、そういう世界であったとしてもおかしくはなかった。今の世界から考えると、ちょっと不気味で存続の可能性に疑念があったりするけれど、構造的に論理的にあり方自体が否定されるということはない。




頭大丈夫そ?

だが、そんな世界にあっても、やはり一人ひとりは違ったものになるだろう。なぜなら絶対に「視点」が違うからだ。単純で当たり前な話だが、物理空間においては違う物体が同時刻に同じ位置にあることはできない。これは物理空間であるなら、どんな世界を想定しても必ずそうなる、いわば構造側からの要請である。つまり視点は自分の個性としては、見た目や考え方や生活習慣などと比べて一段階上であり、より根源的なのだと言うことができる。しかし、そんな視点も依然として絶対に自分固有のものなのではない。例えば現実の物理空間を離れ、バーチャルのような世界を想定するなら、重なり合って立つことは容易であろう。プログラムすればきっと、永久的に重なり合って全く同じように動き全く同じ範囲のものしか見られないようにすることもできるはずだ。




それが普通

つまるところ、人には確実な個性などない。全ての個性はたまたま世界がこのようにあるから、それに伴ってたまたま自分に帰属しているに過ぎない。もちろんその偶然を、なぜかは分からないが現にこうしてそのような世界が広がっているのだからという意味で必然と見なし、全てを自分の個性だと捉えていくのもできるにはできるし、実際現実ではほとんどの人は最初からそうして生きているのだと思う。




この話私にしか需要なくね…?

しかし、私は自分の核となるような性質を見つけたいので、それではダメなのだ。とっぱら得るもの全てをとっぱらった最後に残るものはあるのか、あるとしたら何が残るのか、私は知りたい。残るものはあると思う。例えば、今私が見ている景色を全く同じ視点で見ている他人がいるのだとしても、私とその人が見ている景色が同じであるかどうかは確かめようがないというようなことにヒントはある気がする。私の見ている景色は絶対に私にしか見られないのである。だがそれはもはや個性とは呼べないのかもしれない。つまりは、それが個として存在するというそのことだから、事態は「自分の核になる性質=自分の存在そのもの」なのではあるまいか。