底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分にとっては不快でも

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自分にとって不快なものはなければないほどいい。これは自明なことだ。不快なものを望むとは定義に反する言葉の使い方であって、それはもはや自身にとっての快であるから望まれているだけに過ぎない。しかし人間というのは当たり前だが集団で暮らしている。そして、一人一人の人間は大きく異なる性質を持っている。自分にとって少しの不快である物事が他の誰かにとっては必要不可欠な生命線であることだって大いにあり得る話だ。その不快を排除していくことで抑圧され根本から居場所を失う人がいるかもしれない。そういう想像力は人として持っておきたいものである。

 

 

2

そもそも不快に感じたとしても色々選択肢がある。それを以降は自分の視界に入らないようにすることは自身の工夫次第でどうにでも実現可能だろう。それを行わず、不快を感じたことをひたすら世の中に訴えるというのはつまり、「世界は自分のために不快をなくすべきだ」などの観念がその人の背後に潜んでいるということだ。即ち、その人はもう不快を感じたくないと言いつつ、その実、不快を感じさせた世界に怒り続けたいのである。不快を感じさせた世界を許さないでいることで、自分を世界の中心に据えたいだけなのだ。

 

 

3

誰しもが自分を世界の中心と思う、それはとても自然なことである。全ての人にとって、自分と言える人は世界に一人しか存在せず、そいつが死ねば世界が終わるのと同義であるのだから。しかし、それは「自分にとって」だけであることを、誰しもが成長の過程で痛いほど思い知るはずだ。他人には他人の大事な自分があり、自分には自分にとっての大事な自分がある。それを守れるのも、それを大事できるのも、根本的には自分自身だけなのである。だから、世の中に怒るよりも先にやるべきことがあるはずだろう。

 

 

4

世の中の多くのものは必要から生まれる。誰かが必要としているからそれが存在し、誰かが望んだから世界は今このような形になっている。もちろんだからって全ては今のままが一番良いということではない。もっともっと改善に向かうべきものも多く存在しているだろう。しかし、現にやはりそれは誰かが必要としたことなのである。改善する時にはまずその視点から考慮しなければならない。少なくとも、不快に感じた勢いに任せて排除に動いていいようなものでは決してない。色々なことに対して我々はもっと慎重になるべきではないだろうか。感情や勢いに任せることをやめ、時間の許す限り熟考を重ねて、様々な角度から検討し、決断するのはいつだって最後の最後でよいはずだ。

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