底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

失うこと加えられること

1

自分が今既に持っている「よい」ものを失うというのは大抵苦痛を伴う。それは「なぜ」失われなければないのか、端的に答えがないからだ。答えはないのに、現に失っていることだけはよく分かるから、本当やるせない。何の「よい」を失うにしても、そうではないだろうか。やるせなさは、「そのもの」を無くしたから抱くと言うより、「自分は既に持っていたのに」無くしたからこそ、抱くものであるはずだろう。今自分のものである全てのよいは、既に自分のものであるというそのたった一つの理由で失いたくない。そのものがどんなものであるかは、そもそもが無関係である。

 

 

2

よいを失う方には敏感であるがしかし、今の自分に何かのよいが加えられるということの方に、人は存外鈍感である。失うのは何でも嫌だが、加える方は結構何でも受け入れる。今自分が住んでいる家に既にある設備や広さを失ってグレードダウンするのは嫌だが、もっと使い勝手がよく広々とした家にグレードアップできるなら、それに越したことはない。今自分が稼いでいるお金も、これ以上減るのは勘弁だが、増える分にはきっと文句を言う人はいない。よいものを加えられるのだから、拒絶しないのは当たり前と言えば当たり前のことなのだけど、失うと比べると、やはり非対称的である。

 

 

3

加えられることに鈍感なのは、こちらには「なぜ」を抱かないからだ。ラッキーはラッキーとして簡単に受け入れられる。なぜ加えられたのか、端的に答えはなくとも、加えられたその結果は自分にとってよいものなので、原因に無頓着でいられる。人は自分にとってよいものを、自分は手に入れるに相応しいと思いがちなのである。だから、そこになぜを抱かない。自分は相応しいので、それを加えられるのは当たり前だから。一度手にしてしまえば、むしろ、今まで加えられなかったことがおかしいと、認識を変えることになる。

 

4

人は失ってからそのもののよさに気づくと言う。本当にその通りだろう。私は今猛烈に前の生活が恋しい。あんなに素晴らしい暮らし方はなかったと思うほどに。今の生活にも確実に「よい」は加えられているはずなのに、私はまだ見つけられていない。というか、もう疲れた。新しい生活にうまく馴染めない日々。結構ストレス。仕事以外何もできない毎日を送っている。ブログのことも上手く考えられない。そこまで頭が回らない。人生が本末転倒している。早く戻したい。

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