底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

最善は今と未来のどちらに置くべきなのか

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世界にはもっといい形がある、少なくとも今の形は理想ではないと思う一方で、たとえ最な理想に辿りついたところで、所詮は人が生まれ生きて死んでいくだけ、そしてそれは今となんら変わらない、とも思う。私は世界を少しでも善くしようと自分のできることをやっていくべきなのか、はたまた今あるこの「既に最善」である世界を存分に味わうだけに留まるべきなのか。迷いどころである。世界の誰しもが何の犠牲となることなく何の不幸を抱えることなく穏やかに健やかにその一生を生きられ、その上で未来にそれを繋げていける。それが私にとっての一面の世界の理想である。だが、同時に着地点をも考える。その理想が叶ったところでどうなる。人類が理想的な形の歴史をひたすらに何万年何億年紡いでいったとして、それが何になるというのだ。ただひたすらに虚しいではないか。理想が叶ってもその虚しさがなくなることは決してない。いやむしろ理想が叶えば叶うほどますます虚しさは大きくなっていく一方である。




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自分の人生にも同じことが言える。今の自分の人生はまだ十分に善いものではない。いたる物事において本当に未熟者である。だが、自分を必死に磨き上げたところで、それになんの意味があるのかと問えばきっと何もない。どんなに理想的な自分になったとして、私に待っているのは結局死である。それでも私は少しでも善い自分を目指して邁進していくべきなのだろうか、或いはどうせ等しく虚しいのであるから、残されたわずかな人生をじっくりと享受するだけにしておくべきなのだろうか。




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どちらも正しいと言わざるを得ない。目の前を見つめただ改善へとひた走ることも、ゴールから考え今あるものを大切にすることも、どちらかが間違っているとは私には思えない。ただ共存が難しい。やはり二つは矛盾しているからである。前者は未来に最善があるが、後者は今がそうなのと言う。うーん、どうしたもんか。




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未来に最善があることは、キリがないという欠点を生む。人はいつまでも未来に向かって走っていかなければならないので、どこまでも最善には辿り着けず、延々と世界を彷徨うことになる。一方で今に最善を置くことはどうしても綺麗事の面を拭いきれないのが欠点である。今を最善と言うには世界は惨状で溢れすぎているし、自分には至らぬところが多すぎる。まだまだ改善できるだろと思わずにはいられないところがやはり残されているのである。普段は未来に最善を置いておいて、いざという時に今に最善を持ってくるというのがいいのかもしれない。生きている間は善に少しずつ近づきながら、死に際でこれ以上の世界も人生もなかったのだと思える。なんと素晴らしい。