ろくでもない大人だから…
誰も悪意がなかったのに、不運で自分が嫌な思いをする。日常ではそういうことが往々にしてある。その嫌な思いを一体どうすべきなのか、最近よく考える。表に出さずひとりでひっそり消化するのがスマートな大人のやり方と知りつつ、それだとやはり自分が報われない思ってしまう。なぜそうしなければいけないのか、納得できる理由をずっと探している。スマートな大人でいられる、だけでは私的に弱い。もう既にろくでもない大人だから今更そんなのは理由にはならないのである。うん悲し。
感情が追いついてこないのよ
不運なことは常に世界中のどこにでも転がっている。それが今回はたまたま自分の頭に降りかかってきただけだ。理屈としてそれは理解出来る。でもやはり感情は追いついてこない。そこに理由なんてないと頭では分かるのに、心ではどうしてなのとばかり思ってしまう。嫌な気持ちを表に出すのはみっともないと知っている。それは誰のせいでもなく、態度に出したところで何かがよくなるわけでもないからだ。しかしずっと内に秘めている理由も私にはない。誰のせいでもないという言葉の通り、それは私のせいでもないのだから、嫌な思いを自分ひとりで抱える道理もやはりないのである。もしかして普通はこういう時親しい人にでも話を聞いてもったりして、それでいとも簡単に解決しちゃうのかな…。うん悲し。
そうであれ
まぁその不運のおかげでネタができ、こうして今この記事が書けているので、半分不運ではなくなっているな。あ…そうか!不運を不運じゃなくすればいいんだ!不運を何かに活かせれば、それは必要な経験だったと捉えられて、嫌な気持ちもなくなるのでは!?あー、うーん、自分で自分を慰めているみたいでそれはそれで哀れ…?いやいやでも本当に活かすことが出来たらやっぱり解決するのでは!?そんな気がしてきた。というかそうであれ。そうでないとこの嫌な気持ちの出口がもう見つからないんだもん。頼むよ。
不運は意地でも未来に活かす
でも、不運は未来のためにある、そう書くとどうしても私には安っぽい慰めに見える。だってどれだけ未来の為になると言われたところで、不運はやはりできるだけ人生に訪れないで欲しいと思ってしまうもの。そんな豊富な経験はいらないから波風のない平穏な人生をくださいと願わずにはいられないもの。だから結局それは私にとって真実にはなり得ない。これは意地なのだ。不運ではなかった、私の人生に必要なことだった、と死んでも言わなければいけない戦いがここに繰り広げられているのである。その戦いに勝つことが、きっと不運に納得し嫌な気持ちを消していける唯一の方法なのだろう。人生を賭けた絶対に負けられない戦いが、そこにはある。