底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人間にできるのはあり続けさせること

続いて欲しいと願ってしまう生き物

人間に害をなすものでない限り、普通はなんでも続いていく方がよいと考えられている。人の命も、地域に根付く文化も、形ある物質も、それらが死ぬこと、廃れること、壊れることはいつだって切なく悲しい。時には無くなったというニュースで初めてその存在を知ったようなものにさえ、人は一抹の寂しさや虚しさを覚えるものである。「あり続ける」はそれだけ人間にとって魅力的に映るのだろう。自分にはそれが絶対に不可能であると自覚しているから、自分の命には必ず終わりが来ると決まっているから。そういう思いが募った結果なのかもしれない。




人間にできるのはあり続けさせること

「ある」は純粋な奇跡や偶然によっている。人間には一を十にする力はあっても、無から何かを生じさせることはできない。人間存在そのものもそうであろう。ひとりの人をゼロから生成できるほど、人間は神に近くない。人にできるのは、ただ既存のシステムに則りそれを延長・拡大・発展させていくことだけである。その意味で何かをあり続けさせることは人間の使命だと言えるのかもしれない。他の動植物は本能に従った種の存続しか行えないが、人間だけは他の生物に留まらず、実に様々なものを延命し未来に繋げていくことができる。




今はまだある

人も文化も物質も、他あらゆるものはいずれ必ずなくなる。それを人は既に知っている。少なくとも全てのものが未来永劫続いていくと確信している人はいないだろう。その絶対的期限を前にすれば、何かをあり続けさせることなどはただの虚しい悪あがきと言える。しかし、それでも「今はまだある」という現実がここにある。だから、人はいつか終わりが来ると知っていても、ついついそれを繋げたくなってしまう。せめて、自分の手の中では終わって欲しくないという思いで。




終わらせていいかどうかなんて人間に決められる問題ではない、だからただガムシャラに続けよ

続かせることにどんな意味があるのか、と問うのはあまりおすすめしない。きっと意味なんかないからである。続けた先にゴールがあるわけはないのだから、続けることの意味をその外側に求めても虚しいだけである。続けることそれ自体が意味なのだと、そう思うのが肝である。もしそのように思えないのなら、せめて何かを終わらせることにも同様に意味はないのだと知るべきである。続けることに意味がないのなら、その意味のないものを終わらせる行為にも、当然意味などあるはずがない。なくなってしまうものは仕方ないが、力の及ぶところではやはりできる限りの悪あがきをしておきたいものである。完全に終わってしまったら、もう二度と取り戻すはことはできないのだから。後悔先に立たず、無になってからではもう何もかもが遅いのである。

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