底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

どうせ死ぬのは虚しいけど死がなかったらもっと怖い

眠りすぎて頭いたい

ニートになってから一週間ほど、だらけにだらけまくって精神が終わっています。今日は十五時間ほど眠りました。おはようございます。おっかしいな。無職になったら時間が出来てたっぷり人生への思索にあてがうはずだったのに、何この睡眠とアニメとYouTubeを貪るだけの毎日。頭いたい。

 

 

どうせ死ぬ

どれだけ何かをしたところでどうせ死ぬマン、私は常日頃こいつと同居している。悲しいこと辛いことが起きた時、こいつはたいそう役に立つのが、自分の続けたいもの、やりたいことの前にこいつが立ちはだかると本当やっかいである。こいつは常に私に問いかける。「それやる必要ある?どうせ死ぬんだよ?」と。この問に私はいつも勝てない。死より重大なことなどない、私もそう思っているからである。

 

 

どうせ死ぬ

自分の死を自分は知りえない。その一点において死は無であると言える。だが直感的にそれを自覚することは難儀である。いくらそれが自分にとって無であるとしても、自分の死は絶対的にやってくるという感覚には抗えない。脱力感を持つのに十分すぎる程の理由であろう。どうせ死ぬ、この言葉に人生の全てが飲み込まれる。

 

 

でも死があってよかった

ところで人生とは、どうせ死ぬから虚しいのであろうか。それとも死がやってこない生だとしても、生きているというそのこと自体が虚しいのだろうか。私はどちらも虚しいなと感じる、だが後者の方が更に虚しいなと思う。前者にはまだ「どうせ死ぬ」を「死んでしまうから」に変換する余地がある。「どうせ死ぬから何もかも虚しい」ということから「死んでしまうのだから、一度きりしかないからこの人生を大切に生きよう」に変わることは難しいかもしれないが、ありえないわけではない。可能性は論理上どこまでも残されている。だが死がない生の方は大切にする理由など少しもない。そもそも「生きている」という概念さえないだろう。生きているとも呼べない生、そんなの虚しいを通り越して恐怖すら覚える。

 

 

たぶん普通に叶う

私には今のところ「死んでしまうから」という感覚はない。たぶん生にあまり未練がないからだと思う。私の世界への好奇心はやはり人生の虚しさを埋める為の手段にしかすぎない。真剣に問える程の熱量など持ち合わせていない。ニートになってますますその事がハッキリしてきた。自分の怠惰な生活の似合いっぷりに思わず笑いが込み上げてくるほどである。ただゴミのように生きて、ゴミのように死ぬ。何も成し遂げず、何もわからず、何も残さずに。願わくばこれからもそんな人生を。

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