底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

愛は難しい

1

愛するということの難しさを考えている。愛を持つ、そこまでは至極簡単であるのに、じゃあ愛を持って実際に何かをしなさいと言われた途端に一体何をどうしたら良いのか、さっぱり分からなくなってしまう。何もない空間にひとりでなら、全世界に思いを馳せ、およそこの世に存在する全てのものを愛し慈しむことができるのに、その空間から一歩でも外に出て目の前の現実を見ようものなら、愛はすぐさま究極の困難に成り代わる。人に対しては言わずもがな、そこら辺に転がっている石ころ一つにさえ、きちんと愛そうと思えば、無限通りの迷いが生じることだろう。




2

行動が絡んでくると愛は一気に難しくなる。なぜならそこに正解があるのかどうか、はっきりとしないからである。正解の行動パターンがあれば端的にそれに従えって行動すればよかったし、正解がなければそれはそれで自分の気持ちに正直にいるだけでよかったのに、愛はそのどちらに振り切ることも許してはくれないのである。酷く曖昧であるくせして、じゃあこちらで勝手に何か一つの答えを出そうとすると、すぐに「それは本当に愛のあるものか?」などと問いかけてくる。とてもタチが悪い。愛の一番の敵は自己満足である。自己満足したいからそれを愛と思いたいだけじゃないのか?自分に都合がいいからそれを愛と呼びたいだけだろ?なんて声は途切れることがない。きちんと愛を持って行動しようとすればするほどに、声はますます太く大きくなったりする。曖昧であるが故に、これに「そうではない!」と強く反論することもできない。本当にタチが悪い。





3

人に許されているのは愛を持つことまでで、具体的な何かを愛する資格などはないのだろうと思う。欲や恐れにまみれているので、愛を指針に行動したと自分では思っていても、結局は自分が可愛くてしているだけという可能性を拭い去ることができない。だが資格がないというだけで人は愛を諦められないだろう。愛の幻影しか掴めないのだとしても、やはり愛はあるのだから、手を伸ばさずにはいられない。相手を傷つけてしまうかもしれない、自分の卑やしさを拭いされていないかもしれない中で愛を掲げる人間はとても愚かに思えるけれども、その愚かさを克服しようともがくところにやはり人間の素晴らしさがある。目の前にあるたった一つを愛したいのなら、ひとりの空間を飛び出して、あーでもないこーでもないとあくせくしながら少しずつ地道に歩みを進めていくほか道はないのだろう。