底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

言も動の一つとして見る視点を持っておく

言も動である

何かを言うこと。何かをすること。二つを合わせて「言動」。言っていることとしていることが違うことは「言行不一致」。発言と行動はなぜか別々のものと見られがちである。しかし言葉を話すのだって「話している」のだから、行動の一つであることは言うまでもない。言葉を話すことが他の行動と比べて特別である一面は確かにあるけれども、それでも根本においてはやはり行動なのであるから、他の行為と並列に見る本来の視点も持っておいた方がいいと思う。つまりは言葉を言葉通りに解釈せず、あくまでその人が話しているという行動をしているだけなのだと受け取る。自己防衛のためである。



楽のために

shikouzakki.hatenablog.comお互いが正しさを求め議論している時なら、もちろん相手の話す内容にしっかり注目するのがいいだろう。だが正しさがないようなもの、或いは相手が正しさを求めていない時にはその形式をぼんやりと眺める程度に留めておく。相手が座っていたら、ただ座っているなとそのまま認識する単純さと同じように、相手がそれを話していたら、ただそれを話しているなと認識してみる。行動の一つとして、現象の一つとして、如何なる言葉にも「勝手に」意味付けを行わない。そういう解像度の低いフィルターを選択的に持っておくと、結構楽である。




いつから言と行が一致していなければならないと錯覚していた

言行が不一致になることがあるのは当たり前だ。言と行は別のことではないのだから、甘いものを食べたい時もあれば、辛いものを食べたい時もあるのを気分と呼び、それを矛盾とはしないように、言と行の不一致も全然矛盾ではないのである。むしろ言と行が一致していなければならないと思うことが一つの観念であり、つまりはただの思い込みである。言葉は確かに言葉にできる全てのことを語れるが、語ることはしかし所詮行動の一つに過ぎない。「今からそれをやるぞ」と言っても、それは言っているという行為をしているだけで、実際に今からやるかどうかはまた別の話なのである。




結局は自分の解釈次第

言葉の力を大きく感じるのは、受け取る方が言葉の力を確信しているからである。今からやると「言う」ことは、つまり今からやることなのだと信じているからこそ、そうでなかった場合に「やるって言ったじゃん」と裏切られた気分になる。やるとは言ったけど、「言った」だけだ、なんてのはほとんどの場合通じない。しかし、現象としてはやはりそれだけなのだ。言うことは言うことであって、他の如何なる意味も持ち合わせてはいないし、示してもいない。その意味は現象の側でなく、人の認識の側にこびり付いているのである。自分がどう解釈したいか、結局はそこにかかっている。言を単なる行動の一つとして見る視点は、他人の言葉に振り回されないために役立つだろう。

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