底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

学ぶとはどういうことか

学ぶとは

何かを学ぶこと。それは自分から切り離せるもの、自分ではないものとは何かを知ることである。例えば「人間は〇〇な時△△な行動をとる習性がある」というようなことを知れば、自分の今までのあの行動は人間の特性であって自分固有のものではなかったのだと気づくことができる。もちろんこれは元の命題が真である場合に限った話なので、まずはことの真偽をしっかり確かめる必要があるが、ともかく学ぶとはそういうことなのだと思う。何が自分でないのかを知ることによって、何が自分なのかを消去法で知っていく。自分とはなんなのか。その問の答えを求めている時にこそ、人は何かを学ぶのである。




勉強と学ぶの違い

ここで勉強と学ぶの区別をつけておきたい。勉強とは目的が先にあり、それに迷いなく真っすぐ向かっていくことである。受験勉強、資格試験の勉強がその最たる例で、ゴールが既に明確に決まっていて、そこから逆算して今のやるべきことをやる。それが勉強である。一方で学ぶはゴールが見えない。何がゴールなのかということを、まさに学ばなくてはいけない。勉強がプールの端まで泳ぎ切ることであるなら、学ぶことは潜水である。潜水にとってのゴールとは、さて一体なんだろうか。
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役に立たたせるために学ぶのはよくない

勉強は将来の夢や目標を叶えるためにするものであるが、学ぶことの方はおよそ何の役にも立たない。強いて言えば物事の見方を少し変えられる程度である。冒頭の例で言えば、ある行為を自分固有のものでなく人間の特性なのだと知ることによって、もうあまりその行為の意味を気にすることはなくなるだろう。人間はそういうもんだから考えても仕方がないの仕方なさが身に染みて分かるようになるのである。でも、やはりそれだけだ。現実は何一つ変わっていない。知ったところで相変わらずその行為をする自分は存在し続けるのである。逆に言えば、何かの役に立たせくて、つまりは目的をもって学ぶということはあまりしない方が良い。なぜなら往々にしてそれは真実を隠してしまうからである。「こういう結果であってほしい」から出発すれば、その結果にそったものしか目に入らなくなってしまうし、明らかに関係のないものでさえ、その結果に繋がるように無理やりこじつけてみたくなる。バイアスを生むだけで何一つ良いことがない。




学ぶことの意味は学ぶことだ

何かを学ぶことの意味は、学ぶ行為自体に含まれていなければならない。それを知ってどうなるの?ではなく、そもそも知っていく選択肢しかないやん、となってこそ学ぶことには意味が生まれるのである。

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