底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

情とはなんだろうか

はぁ…。

仕事の帰り道、いつもの住宅街を歩いていたら、あるおばあちゃんがおそらくその旦那さんと思われるおじいちゃんの運転する車を、お見送りしている場面に遭遇した。おじいちゃんが車の窓を下げ、じゃあ行ってきますと言い、おばあちゃんはそれに対して、うん、気を付けてと返した。なんてことない日常の一コマ。それから、おじいちゃんの車がずっと遠く肉眼で見えなくなるまでおばあちゃんはそこに佇んでいた。あぁなんて素敵なのだろうと思わずにはいられなかった。恋だの愛だのとは縁遠い人生を送っている私でもさすがに分かった。これが愛情というやつか。幸せのおすそ分けをもらったのと同時に少しばかりの虚しさを抱え、私は再び家路についた。はぁ...。




情には異質の不思議さがある

今日の仕事中にはずっと「情」というものを考えていた。情は何か他のものにはないような不思議さがある。それは言うなれば、分からないとはっきり分かる不思議なのである。人間は実にたくさんの不思議でできている。自由意志や精神や意識、それらが何なのかということは未だ厳密には定義できていない。これから先、様々な思考や実験で明らかになっていく部分は増えるかもしれないし、逆に今分かっているのが人間に分かることのできる限界かもしれない。どちらであるかは今の我々には分からない。だが情はそれらのものとは違い、もう分かる余地がないことがはっきりと分かる。なぜなら、情を分かることが出来たのなら、瞬間それはもう情とは呼べないからである。




情には基準がない

あるものに対しては情を抱き、あるものに対してはなんの情も抱かない。例え二つのものがどれほど似ていようとも。情を抱くか抱かないかは対象の方の何かしらの特徴で決まるのではない。しかしそれなら人間が情を抱く対象を恣意的に決めているのかと言えば、それもやはり違う。なぜか情を抱く。結局はその言い方しかできない。




情は永遠に謎

愛と愛情の違いはなんだろうか。私的な解釈では、愛は心の態度で、愛情は特定の誰かにしか注げないものである。愛はただ思っているだけで、愛情は行為に現れるものだ。情とは酷く受動的であるが、しかしそれは人間の根幹を担っている。人は情を他のものとは比べ物にならないくらい大切にする。いや大切にせざるを得ない。それが情を抱くということだからである。情を抱く対象も期間も人には決められない。自分で決めたのではないのに、なぜか愛おしい、なぜか手放せない、なぜか許してしまう。そう思わせる情とは一体なんなのだろうか。この謎が解けることは決してない。