底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

諦めるとは何か

諦めるとは何か

諦めるとはつまり何をすることなのかと考えている。できることはできるしできないことはできないという観点から諦めるを見る時、その意味をうまく汲み取れなくなる。できそうだったけど現実的にできなかったのならそれはできなかったというだけで、諦めたわけではないだろう。或いはできないことにできそうにないと見切りをつけるのも、諦めではなくただの適切な判断である。できることなのにできそうにないとしたのなら、それは単に判断を誤ったに過ぎない。諦めるという言葉が出てくる余地はどこにもないように思えるのである。

 

 

慎重に見極める

できないものはできない。できないからしないというのは全然諦めではない。手を一所懸命伸ばしても夜空の星に触れられないは自明なのだから、更に力を込めて手を伸ばすことには何ら意味がない。最初から手を伸ばさないのはただの賢明な判断である。間違いなのはここで「だから星には絶対に触れられない」などと帰結してしまうことだ。「地面に立って手をただ伸ばすだけでは届かない」というできないに対する正確な線引が必要である。望んでいるそのものができないのではなく、手段を間違えただけで本来はできることなのではないかと慎重に事態を見極めていかなければならない。

 

 

諦めるは意志の話

諦めるとはつまり、望むのをやめるということであって、それ以外ではないと思う。できるとかできないとかは関係なく、諦めるは単に望むという意志にのみ関わる話なのではないだろうか。できないことは何かを諦める理由にはならない。なぜなら、どれだけできなくとも望むことは依然可能だからである。望んでいる限りは諦めたことにはならない。たとえ何も行動をしていなくとも、全く別なことをやっていても、意志が変わっていないのなら諦めてはいない。現実的にそれを断念していることと、それを望まなくなることは全然別の話なのである。

 

 

諦めたふりはよくない

だから行動は諦めていても意志は諦めていないということが往々にして起こりうるが、このズレはできるなら解消した方がいいだろう。それは容易に、行動を諦めていない他人の足を引っ張る行為へと発展し得るからだ。望んでいるのなら少しでもそれに向けて行動する。望まないのなら端的に望まない。望んでいるのに、色々理由を並べて諦めたふりをするのはよくない。いくら並べたところで、望まなくなることは期待できないからだ。むしろ並べれば並べるほどに、様々な障壁の「せい」で「仕方なく」諦めたという思いが強くなり、それらさえなければ自分だって!なんていう幻想に浸らざるを得なくなるのである。

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