底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

生きていることは自然であることよりも価値とされている

自然である価値<<<生きていること

何かが自然であるということには一定の価値がある。少なくとも不自然であるよりはいいと思われる場合が多い。自分なんてものはその最たる例で、「ありのままの自分」とはもはや腐るほど耳にする言葉であろう。何かがそれ「本来」の自然な姿のままにあることは、それだけ人間にとって貴重なのである。しかし時にその自然の価値よりも上位に来る価値が存在する。それは「生きている」ことだ。自然だろうが不自然だろうが、とにかく生きている方がよく死ぬのは不憫でよくないことだと往々にして思われているのである。絶滅しそうな動物を保護するのは明らかに不自然だ、命を絶とうとしている人を止めるのも同様。だが現実においてそれらは端的によいことだとされているであろう。

 

 

容認できない

生きるということを超えた自然を人は容認できないのだ。どんなものも死ぬべきではない。仕方なく死ぬのは文字通り仕方ないけれど、仕方があるのなら、生きているべきだ。死は、選択肢が他に何も残されていない時に「陥る」ものであって、自らにそれを「自然に」に望むことは起こりえない。だから、自殺には必ずそれ相応の「原因」があると多くの人は考えるのである。

 

 

善悪は自然であることを喰らう

ある意味で世界に起こることは常に「最も」自然である。世界にとって何かが不自然であるというのはどんな場合においても意味が分からない。それらはいつもただ起きているだけなのだから。だが人間にとってはそうではない。人間には世界の全てをありのままとして受け入れることはできないのである。なぜなら我々には常識があり、善悪の価値判断があるからだ。悪には最初から排除すべきものの意味が含まれており、そこにおいては「自然である」ことの価値は極限まで無視されるのだ。そして、普通人間にとっての最大の悪とは、言わずもがな死であろう。

 

 

自然だとしても

自然であることよりも生きることを価値としておく。その是非については分からないが、現状としては生きている方が圧倒的に優先されている。生きているのなら多少の不自然は仕方ないし、人を死に至らしめるものは、たとえ自然であったとしても酷く恨む。自然は自分が生きている限りの、他人の生を脅かさない限りの中でのみ認められているのである。生死がいかに人にとって重いことであるかがよく分かる。生き物にとって自然そのものであるような死も、人間の前では「知ったことか」である。自然だとしてもだって生きていたいし生きていて欲しいんだ!という思いが、きっとそれだけ人間の根幹を支えているのだろう。

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