底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

大丈夫、だって私人間だもの

自信がない

私には自信などというものはさらさらない。ブログ名からも分かる通りに多くの場合に卑屈で、自分は本当に何もできないなと常々実感している。それでもその卑屈さに殺されず、自信のなさに絶望せずになんとかここまで生きてこられたのは、偏に私が一人の人間であったからだと思う。どんな人間にも最低限備わっている、人間である限りで持ち得る力が私にも平等に与えられていたおかげで、どうにか日常生活を送れているのだ。生物としての人間はとても優秀である。私はその優秀さに日々身を委ね、邪魔をしないようにと生きている。

 

 

淡々な人生は無理

人生は本来淡々と送れるものであるはずだ。何が起きても淡々と構えていればそれでいいのだから。現実においてそれが不可能なのは、人に感情や思いがあるから、ではない。その感情や思いを「切実」だと感じずにはいられない自分が存在しているからだ。感情や思いを「ただ感情を抱いている」「ただ思っている」とすることができないので、どうしてもそれらに基づいた形で生きていくことになってしまう。だから散々振り回されるしかなく、山あり谷ありの人生を送るしかなくなる。自分という存在が人生を困難なものにしているのだ。

 

 

悪いことだけではない

だがそうであるからこそ人はありありとした喜びやありありとした感動を持つことができる。感情と思いが自分から切り離されることなく、必ず切実なものとして現れてくれるから、人生には面白みがある。切実に感じるのは悪いことだけではないのは確かな事実である。しかし時として切実に感じすぎる事態が人生には起こり得る。自分という存在が大きく大きく膨らみ、およそそれ以外の如何なるものも視界に入らなくなってしまうのは誰でも一度くらいは経験があるだろう。

 

 

自信がある

自分であることと、人間であることのバランスがすごく大事なのだと思う。自分に合ったバランスが必ずあるはずだ。私の場合には自分をできるだけ小さくし、人間であることをできるだけ大きくするのが性に合っていた。自分というものがほぼ空っぽだったので、それを小さくすることにもそれほどの苦痛はなかったし、人間である要素を大きくしたことで、人生は格段に豊かになった。今も自分にはさらさら自信はないけれど、人間であるのところの自分は結構悪くないと思っている。知らなかったわけではないけれど、改めて自分は所詮人間の一人なのだと自覚するのは、何気に気持ちがいい。そうか、私にも人間なら誰しもが持っているものがあるじゃない。どこに自信をなくす理由があるのさ。大丈夫やで。

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