底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人は絶対に自由である

自由は保証されている

「〜してはいけない」という禁止文句が効力を持つことは基本的にありえない。大抵は罰則がつけられ「〜したら罰則を与えますよ」の形で、個人が「したくならない」ように仕向けているだけである。言葉は個人の自由領域には届かない、それ故に個人は絶対的に孤独であり、個人の自由が侵害されることは決して起こり得ない。個人は常に今手持ちの選択肢の中から自由に一つを選ぶことができる。その自由は如何なるものにも奪えず、個人が個人である限りにおいて世界によって強力に保証されているのである。

 

 

共同体にできること

だから国やその他の共同体が個人に何かを「させたい」と思う場合には、禁止や強制をするのではなく、個人の手持ちの選択肢をコントロールすることでその実現を試みなければならない。個人の眼前に現れる選択肢の中に「させたくないもの」を出現させないのが何よりも大事である。個人の自由を縛るやり方は必ず上手くいかない。なぜならそれは縛り得るものではないからだ。既にある選択肢を個人に選ばせないことは罰則などをつけることである程度は実現可能でも、絶対に選べせない力を共同体は持ちえない。共同体が成し得ることはせいぜい、個人に与える選択肢の選定までなのである。

 

 

自分の自由を自覚する

つまり何が言いたいのかと言えば、結局個人が自分の自由を自覚し、その中で自分にとって最善である選択肢を熟考して選ぶのでないのなら、その集まりである共同体が上手く機能するはずはないということである。「〜すべきだ」にも「〜してはいけない」にも個人は究極的において従う理由がない。それらを考慮に入れた上で更に従うかどうかを選択できるからだ。だから、すべきだからするは通らないし、してはいけないからしないも通じないのである。自分なりの理由がそこにないのなら、それはただの盲信と変わらない。

 

 

人は強制的に自由

自分の自由を見て見ぬふりしてはいけない。特に言葉に対しては、如何なる態度をとることも人には許されているのだから。信じるのだとしても従うのだとしても、立派な自分自身の選択なのである。鵜呑みにしたのなら、それは鵜呑みにすると自分で決めたのだ。我々は誰しも強制的に自由なのである。その自由は如何なる時でも絶対に失えない。残酷なことであるが、眼前にクソみたいな選択肢しかなかったのだとしても、やはり個人にはその中から一つを選ぶ自由が与えられているのである。誰のせいにも何のせいにもできない自由がどこまでも個人には残されている、その責任を背負うことからは決して逃れられないのである。

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