底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

大きい自分と小さい自分の話

二つの自分

自分を二つに分けてみる。大きい自分と小さい自分である。ここでの大きさというのは人としての器とか、そういうものだ。大きい自分は常に理想的で優しく余裕があり、未来に対して果てしない希望を抱いている。およそ存在する全てのものを愛し慈しむ。それに対して小さい自分は、限りなく利己的で自己を脅かそうとする他人を決して許さず、妬みや恐れ、その他のあらゆる負の感情を身に纏っている。

 

 

対極の存在

小さい自分は大抵の場合、人を自己嫌悪の沼に突き落とす。それらの感情を抱えている自分の卑劣さに耐えられる人はそうそういないであろう。小さい自分の存在意義とは自己を守ることにある。だがその防衛に見合う価値を人は普通持っていない。そこまで守られてまで存在する価値が分からないからこそ、攻撃的な感情は卑劣で悪と評される。一方で大きい自分の方は人に前を向かせ、自分に価値を与えてくれる。自己肯定感に溢れ、おおらかな気持ちに絶えず充たされる。

 

 

存在を守るものと精神を守るもの

こう言い換えてもいい。小さい自分は自分の存在それ自体を守っていて、大きい自分は自分の思いや精神の方をを守っているのだと。どちらにもそれぞれ良さがあり、悪いところがある。大きい自分の方ばかりが世の中で賞賛されるが、それは皆がそうある方が、社会にとって都合がいいからである。本来的に小さい自分より大きい自分の方がよいなんてことはないのだし、小さい自分は悪いものだなどということも断じてないのである。小さい自分は切り捨てられるべきものでもなければ、卑しいものでもない。人間である限りにおいて当たり前に抱えるものであり、自分を守ってくれる大切なものでもある。

 

 

小さい自分に守られることは悪では無い

大きい自分を目指すこと、大きい自分を維持すること、そういったことはもちろん尊い行為であるように思う。しかしだからといって、小さい自分の存在を否定したり、それらをなくそうと動くことは本末転倒ではないだろうか。小さい自分がいるからこそ、大きい自分は素晴らしいと評される、そのことを忘れてはいけない。小さい自分が人生の土台を守ってくれているからこそ、大きい自分によって人生をよきものに創りあげることができるのだ。利己的に考えるのは悪である。ヒトという種の存続のために、そのような思いに苛まれることは致し方ない。だが、自分とはそういった種である前にひとりの「独立」した人間なのだから、自己防衛は大いに自然なことである。人間が滅んでも私だけが存在する可能性は奇跡が起こればあり得るが、私が消滅すれば、世界は絶対になくなるのだから、存分に小さい自分に守られていてもいいのである。

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