底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

目の前にあることを一つずつ

死にたいマンの日常

基本的に死にたい死にたいマンなので、放っておくと家のベッドに横たわって一日中放心状態みたいになってしまう。それだとさすがに色々とまずいので、常日頃私は自分にたくさんの課題を出している。課題といっても何か難しいことをやるのではない。YouTubeやアニメを見るとか、本を読むとか、どこかに行くとか、何かについて考えるとか、ブログを書くとか、そういったごくごく普通の行動を課題として自分の目の前に並べる。そうすると「あ、これなら今できるかも」と思えるようなものが大抵ひとつはある。一旦そのことを始めてしまえば、時間はもうあっという間に過ぎ、いつの間にか一日が終わっている。そうやって日々をやり過ごし、私は今日まで生きてきた。




意図的に視野を狭くする

人生に対しての視野は大きくすればするほど、その全体像が見えれば見えるほどに虚しくなっていく。人生それ自体に意味などなく、人はどうせ死ぬ。そこから導かれる理想は今すぐ苦痛を伴わずに消えてなくなることだが、それは叶わない。だから私は世界が私を殺すその日まで生きていかなければならない。どうせ生きるのであれば、楽に楽しく生きていたい。そのために、人生に対する視野をできるだけ狭くする。時間で言えば一時間先が見えればそれでいい。この一時間の中で自分が何をしたいか、何をすべきなのか。このくらいの短い時間なら、すぐに思いつくことができる。あとは淡々とそれをこなし、気がついたら、あら不思議もう死ぬお時間じゃないの......というほど最強な方法ではないけれど、人生の半分、いや三分の一程度なら、これで誤魔化せるはずである。




死に勝てるもの

死にたいとは、結局のところ私にとってはひどく抽象的なものである。その抽象的なものをやっつけるのに、同じ抽象的なものを使うのではダメなのだ。価値ある人生を生きたいとか、誰かの役に立ちたいとか、何かを成し遂げたいとか、そんなのは「どうせ死ぬやん」の一言で全て吹き飛んでしまう。だから時間も空間も限定して、目先の一時間でできることだけに集中する。見据える時間が短ければ短いほど、そのことは「どうせ死ぬやん」とは無縁になっていく。どうせ死ぬとしても、だって今やりたいんだもん。




小さなことでいい

死にたくても、生きている限り目の前には小さな欲求と小さな使命で溢れかえる。あ、あの動画もう一回見ときたいな。あ、洗剤きれてたから買わなきゃ。どんなに小さなことでもいい、その中で自分にできるものを一つずつ。そうすれば、それは時に死を超える力さえ、私に与えてくれるのである。

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