底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

未来と過去とするとしない

未来と過去とするとしない

何をしたいか、何をしていけばいいのか、何を成すべきなのか。未来を気にする時人はいつも「すること」に偏る。逆に過去を振り返る時は、あれをしなかった、これをしておけばよかった、それをしていたらどうなっていただろう、と「しなかったこと」に軸が置かれる。なぜそうなのだろうか。なぜ人は大抵、未来に対しては「しないこと」を考えず、過去に対しては「したこと」を思い返さないのか。たぶんそれは未来が「まだない」のに対し、過去は「もうある」からだろう。まだないものは当然その形も定まっていないから、理想の形を人はついつい夢想してしまう。反対にもうあるものは当然既に輪郭があるので、理想の形との比較になり、その不足部分がついつい目に入ってしまう。目の前に真っ白なキャンバスがあったらどんな絵を書くかと想像するけれど、未完成の絵がもう書かれていたのなら、どうやって残りを埋めるかと考えるであろう。

 

 

未来にこそ修正の気持ちが必要であり、過去に対しては完成した絵を眺めている態度が必要である

しかし、人は勘違いしていると思う。未来とて今と絶対に繋がっているのであり、過去とて今と絶対に断絶しているのである。未来はいくら「まだない」といっても、それは言い換えれば「これからある」に過ぎず、過去はいくら「もうある」といっても、それは言い換えれば「最早ない」に過ぎないのだ。未来は完全な真っ白いキャンバスでは有り得ず、過去も未完成の絵として存在しているのではないのである。

 

 

未来と過去の考えるべきこと

未来は全て不確定なのだとしても、所詮は今を変えた形でしか現れない。だから、ただ理想を夢想するだけでなく、今と地続きであるということもしっかりと考えなければならない。何をするのかだけでなく、何ができるのか、そしてそのできるを精一杯使うために、何を「しない」ことが大事なのか。逆に過去は全てが今を通って来たのだとしても、所詮はもうないものである。しなかった後悔や仮にそれをしていたらという妄想をいくら膨らましたところで、今は過去ではない。あの時にはもう二度と戻れないのだから、それよりも自分は何を「してきた」か、してきてよかったと思えるのは何があるか、と考えてみるべきなのだ。

 

 

引き算をしよう

生まれて死にゆく存在の我々にとって、生とは少しずつ無に近づいていくものである。一人の人間にとって、特に一人の大人にとっては、未来とは段々と細くなっていくものだろう。だから必要になるのは引き算なのだ。今から何を引くか、何をしないか。徐々に縮小していく「できる」の中で、自分が本当に最期まで残したいものはなんなのか。それを教えてくれるのは過去の自分である。今までの人生で捨てずにここまで持ってきたものの中にきっと答えは眠っている。

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