底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

比較によって生まれる価値は比較によって失われるという当たり前

比較による価値

比較されないと分からないよさというのはある。自分の「得意」なんかがそうで、他人と比べるのでなければ当然秀でているのだとは分からない。劣っているもの、普通なものがあって、それらを引き立て役とした時に初めて価値を持つ。そのものの価値は内側にある何かの性質によってではなく、外側の、周囲の比較対象によって決められているのである。だから周囲が変化すれば、もちろんそれに沿ってそのものの価値も変動する。周りが自分よりも得意な人ばかりな環境では、もう自分のその得意にはなんら意味がなく、もはや得意とさえ言えなくなるのは当たり前であろう。

 

 

比較価値をアイデンティティにするのはとても大変

比較による価値は所詮その程度のものに過ぎない。それは自分固有の、自分に由来する、自分が源泉であるような価値とは全然違う。いわば全てが偶然であり、たまたま周りに自分より得意な人がいなかっただけのことである。それはあくまで他人目線の価値であって、自分自身の不変的なアイデンティティにはなり得ない。もし不変的に自分自身のアイデンティティにしたいと望むのなら、常に自分より得意である人を避けるか、どんな環境においても自分が一番得意であるのでなければならない、大変にしんどい人生を送る羽目になるだろう。

 

 

生きやすさに留まるもの

比較による価値がこの世を生きる上で有利な武器となるのは間違いない。その文脈で語られる時にのみ比較価値は大事なことである。つまりは自分自身が快適に生きやすくするためのものであって、それ以上でもそれ以下でもないのだ。生きやすさを超えて、自分の人生そのものにまで侵入を許してはいけない。周りの環境で全てが変わってしまうようなものに自分の人生を委ねれば、いずれそれが苦痛になるのは必然である。

 

 

人生の中心に置くべき価値

自分の人生の中心におく価値は比較によらない価値がいいと思う。何か他のものと比べてではなく、端的に価値であるようなものがこの世にはあるだろう。それは自分の実感で得た価値である。端的に価値があると感じるものは他のものと比べられて価値と感じているのではない。いや仮にそうなのだとしても、そうだとは感じないであろう。直接心に訴えかけてくるような感触を人は価値でないとすることができないのだ。たとえ周りがなんと言おうと、どんな違う感じ方をしようと、その感触が消えることは決してないのである。相対化され得ないそれをこそ自分の人生の中心に据えたのなら、もう周りを気にする必要もないだろう。それは自分だけの自分にしか分からない絶対的な価値なのだから。失う方がむしろ難しいのである。

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