底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

書きたかったので書いた記事

1

埋まらない不足に絶望しながらそれを補っていこうとすること、或いは欺瞞という苦しみを伴いがらその不足を肯定しようとしていくこと。それら負の感情に苛まれながらでしか、よいものは生まれ得ない、或いはそのように生み出されたものにしか生み出された価値がない、と長い間思っていたけど、別にそうではないなって今なら思える。負の感情から生み出されたものこそ、時にむしろ、自分は負の感情を感じながらやっているということの「やっている感」に騙されている可能性があるなぁと考えるようになったのだ。

 

 

2

どんな経緯で生み出されものだろうと、そのものがよいものであるかどうかとは端的に無関係だ。そのものがよいかどうかは、そのもの自体が持つ価値によって決まるからだ。もちろんそれでも、生み出された経緯にこだわるのは個人の勝手だ。けれど、それは自分の趣味嗜好の範囲に留まるものである。幸せの絶頂にいようとも、不幸のどん底にいようとも、平坦に均されたアスファルト道を歩いていようとも、凸凹の茨道を歩いていようとも、鼻くそをほじりながらでさえ、よいものが生み出される可能性は常にそこに広がっている。

 

 

3

生み出すということに対して私は随分とたくさんの固定概念を持っていたように思う。その固定概念の数々はたぶん自分の生みす力に対する自信のなさの表れだったのだろう。自信がないから方法に縋ろうとする。この方法さえ辿っていれば間違いないって、しかもこんなに苦しみが伴うのだから尚更だ、と思いたかったに違いない。だが、よいものかどうかは生み出された後で、それを振り返った時に初めて分かるのだ。しかも、よいかどうかは見方にその多くを依存している。価値を見出す見方をすれば、大抵のものはよいものになるのである。そのよさに気づくかどうかは完全に自分次第だ。

 

 

4

書くことから距離を置いたこの頃、色々見えてきたなと感じる。「書くことから離れられない自分」にアイデンティティを置いて必死になっていた時はただただ怖かったのである。ただでさえ何も無い自分から書くことすらとったら、本当に何も残らない。と思っていた。いや、これは今でも思っている。でも、何も残らなくても別にいいかって、むしろ「何も残っていない自分」がどんなであるか、俄然興味があるね、と前向きになったのだ。そして、今は純粋な欲に従ってこの記事を書いている。実に清々しい気分だ。よいものを生み出そうという心意気さえない。ただ書きたかったので書きました。おわり。

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