底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

軽薄であることしかできない

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私は常に自分のことを軽薄に思う。他人と関わる時も自分一人でいる時も、いつもいつも思慮深さに欠けていると思う。自分の言動の全ては「正解」とは程遠く、何を言っても何をしてもまさに軽薄そのものでしかないと強く感じる。死を意識するのを忘れた時、全く興味もないのに他人の言葉に頷いた時、ジョークが人にウケたといい気になっている時、本の難解なところを読み飛ばした時、電車で席を譲りいいことをしたなと自負した時、まずいご飯につい顔を顰めた時、ブログに自分の軽薄さを告白しようとした時、その全てを私は軽薄に思う。

 

 

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軽薄さがなぜ生まれるのかと言えば、それは一つには過去を振り返る自分が存在しているからだ。後から言うだけならなんとでも言えてしまうのである。その場で正解の言動をするのは酷く難しいが、後から行った言動を不正解だと指摘することは容易い。だからいつもいつも自分は軽薄にならざるを得ない。仮に何かの言動を、いやあれは軽薄ではなかった端的に正解だったと振り返ってみても同じことである。それは単なる自己正当化であり、自分がそう信じたいだけだろ?などとそれ自体またすぐに過去として軽薄に振り返られてしまうからだ。

 

 

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生きている以上この軽薄さはもうどうにもならないのだと思う。思慮深くなればなるほどもはや何も出来なくなるのが定めである。この世で正解であることができるのは究極には自分の心の向きだけなのである。人に優しくある、愛をもって接するなどと心の底から決意する時、それ自体は決して軽薄では有り得ない。そう心に決めるだけであれば、人はいつだって正解のみを抱えたまま慈悲深く生きられるのだ。問題になるのはやはりそれを表現しようとした時だ、相手にそれを伝えようと一念発起した時、正解で囲われていた壁はいとも簡単に崩れ去り、人は軽薄の元に晒される。

 

 

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結局は軽薄を脱出しようと藻掻いてみせるしかない。どうしたって完全な脱出は叶わないけれど、どの軽薄さならまだマシかと考えることはできる。そうやって一つずつマシに変えながらも、時々はやはり自分の軽薄さに絶望して、地を這う形で生きていく他ないのだろう。そのためには自身の軽薄さに殺されないことがとても大事である。たまにはその軽薄さを開き直るのがいい。どうせ自分は軽薄な人間なのだと認める更に軽薄であることをして、元々の軽薄さがマシに見えるようにしておくと、多少生きやすくなるはずだ。どうしようもなく軽薄であることしかできない人生。はぁ。クソくらえ。

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