底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分の確実なアイデンティティ

Q:この記事にはアイデンティティという言葉が何回出てくるでしょう

つまるところ、確実に自分のアイデンティティと言えるものは「存在している」というそれだけであろう。他の一切を取り替えても、それが保たれている限り自分は存在しているのだし、逆に他の一切が保たれていようとも、その一つのアイデンティティを失うだけで自分は存在しなくなってしまう。自分の中核であり、自分の存在そのものでもあるこのアイデンティティが保たれている限りにおいてのみ、他のアイデンティティはそれに付随する形で意味を持つ。他のアイデンティティが持つ意味とは所詮「自分が自分としているもの」であり、それらは事実として自分を形成しているのではなく、言わば自分自身の思いに過ぎないのである。




私の運命共同体

存在しているというアイデンティティを失うのは自分が死ぬ時だけである。ここでの死ぬとは肉体的な意味に留まらない。自分が存在しなくなる全ての場合を含んでいる。自分が存在しているのに、存在しているというアイデンティティを失うことはあり得ないし、自分が存在していないのに、存在しているというアイデンティティが残るなんてこともあり得ない。自分とこのアイデンティティは常に表裏一体であり、運命共同体なのである。だから、このアイデンティティを失わない限り自分は絶対に存在しているのだ。たとえ他のアイデンティティをどれだけ失っても、その一つさえあれば、私は依然私のままにここにあるのである。




大事であるだけ

他のアイデンティティももちろん自分にとって大事だからこそ自分のアイデンティティになるわけだけど、でもやはりそれは「自分にとって大事」であるだけで、自分そのものの構成要素ではない。だからそれらは、常に損なわれたり失ったりする可能性を持っている。どれかに重きを置きすぎると、いざなくした時にはきっと感情の整理をつけるのが酷く難しくなるだろう。




唯一奪われることがない

存在している以外のアイデンティティは言うなれば、自分の誇りや価値の源なのだ。それらは確かに大事なものであるが、でもなくしても自分が自分でなくなるということはない、自分が自分でなくなる「と思う」だけである。存在しているのアイデンティティがある限り、自分の存在は変わらずあり続ける。それは決して奪われることのない(奪われた時には自分はもういないから)自分だけが持っている唯一のアイデンティティなのである。自分が存在している。自分が存在している限り確実なのはそれ一つだ。それ以外のアイデンティティに自分を縛り付けるのは、ただただ自分が苦しくなっていくだけである。





A:19回

うーんゲシュタルト崩壊