底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

いつでも真実を書き記す

真実を書く

いつでも自分の思う真実を書く、心にもないことは書かない。それを守るだけで、書かれたものは少なくとも自分にとってだけでも掛け替えのないものになる。嘘をつく悪さというのはたぶんそんなところにある。自分ですら自分の本当が分からなくなる、きっとそれが一番苦しい。自分自身を守るためにこそ嘘をつくべきではないのだ。真実がどんなものであれ、真実であるなら必ず真実という価値を持つ。無様だろうと惨めだろうと真実なので絶対に偽りではない。それだけで十分なのだ。それ以外の価値はあればいいな〜くらいに留まるものである。




偽物には意味がない

付帯的であったものを大層大事にして、物事の本質を見失う。これ人間の得意技である。自分をよく見せたって、それが偽物の自分なら何の意味もないというそんな当たり前さえ、時に分からなくなる。価値はいつだって本当から始まる。偽りである時点で、例えそのものがどれだけ他人に讃えられたり、他人の役に立てたりしても、自分にとっては「よさ」では有り得ない。偽物と本当の間には果てしない断絶がある。どれだけ本物そっくりの偽物でも本物の代替はできない。自分自身こそがそれを一番よく知っているはずだ。




幸運なチャンス

どんな本当でもそれを一旦は受け入れるしかない。受け入れた後で嫌だと思う部分を変えればいい。偽るのではなく変えるのだ。それは偽るのように一瞬で簡単に行えるものではない。日々のちょっとした意識を一つ一つ改めて少しずつ少しずつ積み重ねた先でやっと変化が訪れる。それもほんの僅かな変化である。酷く手間がかかるが、嫌だなと思う自分を減らしたいのなら、方法はそれしかない。本当を変えられる。その方法が一つでも残されているだけ幸運なことである。神様の慈悲か試練かは分からないが、自分にとってはチャンスであるのは間違いない。




真実である限り

心から思うことをしよう。頭で考えた言葉だけを語ろう。自分を生ていこう。そうすればこそ人生に価値が溢れていく。価値を感じる主体は常に自分だから、他の誰の「よい」でもダメなのである。他の人の「よい」をそのまま使い回してはいけない。まずは自分の真実をしっかりと見ること、そしてそれからよくなりたいのなら、他の誰でもない自分自身の「よい」を目指すのである。人生はそこからしか開けないのだ。そこから開いたものだけが自分の人生なのだ。真実を書き記そう。どんなにつまらないものでもどんなにかっこ悪くても。それが真実であるなら大丈夫。それが自分であるなら大丈夫。