底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分でないものを自覚する

名残は自覚した方がいいと思う

生き物である我々には常に前の時代の名残なるものが思考や身体に刻み込まれている。生き物は別に合理を極めた存在ではないので、今ではもう全く必要でないようなものでも、全く普通の顔をして残っていたりするのである。それに対して我々は積極的に働きかける必要があるのではないだろうか。そうでなくとも、それに盲目的に支配されている状態は好ましいとは言えないはずである。こちらから排除するとまではいかなくとも、自分の中にあるどれがそうなのかくらいはせめて理解して自覚すべきだと個人的には思うのである。




我々は日々洗脳されている

自分の中には様々な自分でないものの要素がある。前の時代の名残であるもの、今の時代の風潮や習慣、親しい人の言葉や考え方、何かの作品やマスメディア、そういった様々なものに、我々は常に「洗脳」されながら生きている。洗脳とはつまり、自分自身の思考を経由せず、そうであるだけのものをそうであるだけとは捉えずに特別視してしまうことであるが、その状態のデメリットは非常に大きいと思われる。まずは自分自身の人生を生きられないということ。たった一回の自分の人生を全く自分のものではない考えに支配され占有されたまま終えてしまうのは端的に不幸であろう。後は周りも不幸にしてしまう可能性が高いということ。盲目的に信じられているものは、大抵相対化が困難なので周りにも強要してしまいがちなのだ。結果誰も彼もを不幸にするだけである。




プロセスがあることが大事

同じことを信じるのでも、同じことを正しいと思うのでも、それが自分の頭で考え抜かれた結論なのか、ただただ生まれて生きている流れでそうであるとしているのか、という違いはすごく大事であるように思う。「思う」と「思わされる」の区別がここにある。思わされているものは圧倒的に「なぜ」が欠けているので、柔軟に対応することができない。そこに至るプロセスがないので、結論だけに固執してしまうのである。




「自分」

人の生まれは完全に偶然だ。自分が今の時代に生きているのはどう考えてもたまたまである。その偶然に身を委ねるのも別に悪いことではないが、その場合にも自覚的に委ねている方がいいと思うのだ。偶然でしかないものに自分の人生を縛り付けては端的にもったいないであろう。名残は名残であるが故にもう実体は存在していない。そんなものなら尚更である。自分の人生は世界初なのだ。自分が生まれる前にあったもの、他人がつくりあげたもの、その全てが完全に自分に当てはまることは決してない。自分の人生は「自分」の思考によってのみ開かれるのである。