底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

信念ってなんだろう

信念って何

信念とはなんだろうかと考えている。少なくとも私は自分の中にそういったものの存在を確認できない。人に聞かれてすぐにこれが私の信念だとはっきり言えるようなことは全く思いつかない。きっと「うーん別にないなあ」としか答えられない。でもこれは私が持っていないというより、信念って元々そういうものなんじゃないかと思う。だって人が正しさに基づいて行動する時には、それを正しいと信じているからするのではなく、まさにそれが正しいからこそするのではないか。だから、信念を信念として抱いている人なんているはずはないのだ。

 

 

強く信じられているものはただの現実だろう

何かを信念として抱くということは、それを正しいと信じることだ。しかし、もしそれを正しいと本気で信じているなら、もはや本人にとってそれは「ただの」正しいことであるはずだろう。自分が信じているだけだなどと自覚できるような信念は信念とは呼べない。それは正しいと信じるの意味に反している。自分がそう信じているだけではなく世界にとって「実際に」正しいのだと思えてこそ、信念は信念たり得るのである。つまりは、信念は周りから言われるものであって、自らに掲げたり自分自身で明確に自覚できるようなものではないということだ。

 

 

自分と世界の狭間にある

信念はたぶん世界と自分の狭間にあるのだと思う。世界にあると言い切るのは同じ信念を抱いていない人の存在をあまりに無視している。だが、自分の中にあると言い切るのはそれはそれで信念としての意味を失うことになる。完全に世界に属しているのでもなく、完全に自分に属しているのでもない。逆に言えば、信念とはその二つを架橋するものなのかもしれない。自分を世界に開いていくもの、世界を自分の中に納めてくれるもの、確かにどちらも等しく担っているように思える。

 

 

信念は必要なのかな

信念は人生に必要かという観点を考えてみる。ここでの必要はあった方がよりよい人生を送れるのか、くらいのニュアンスだ。生きる活力になってくれるのは間違いないであろう。信念があるとは端的に人生に目的があることを意味している。だがその分不自由が付きまとうことも、もう目に見えている。信念は曲げられるようなものではないから、時に他人との争いや、自分自身を苦しめる種になってしまうに違いない。うーん、結局は個人の相性や好みの話になるのかもしれない。一概に言えた話ではないような気がする。だが信念があるとしても、それは胸のうちに秘めるべきもの、ただ己の行動のみで示すべきものであるのは、全ての人に共通して言えることではないだろうか。それともこれは私の信念なのかな。

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