底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自由は後からやってくる

自由とは何か

不自由よりは自由の方がいい。不自由の方がいいと言う人も、その不自由を自由に享受したいということであるのだから、やはり不自由よりは自由であるに越したことはない。でも自由というのはすごく難しい、何が難しいかと言えば、現に外から強制的に不自由を与えられている場合を除いて、今の自分が自由であるのかを測りかねるところだ。観念的な何かに縛られていても、自分でそれに気づくのは簡単ではない。縛られているのだから当然と言えば当然なのだけど、意識的に疑うのでない限りやはり大抵は見過ごされてしまう。その上意識的に気づこうとしてもおよそキリがない。「ここまで気づけたらもうあなたは自由です」というようなゴールは設定されていないので、どこまでしたら...?と常に疑問を抱えることになる。




主観と客観の自由

今自分を自由に思えいてるなら自分は自由である。主観的にはもちろんこれが正しい。ただ客観的にはそうではない。想像しやすい例で言えば、洗脳や催眠をかけられている人がそのように言っていても、我々はそれを真実とはせずにただの本人の思い込みだと思うだろう。日常では洗脳や催眠とまではいかなくても、バイアスや強迫観念などがどこにでも転がっている。どこにでも転がっているから、日常での自由は果てしなく難しい。バイアスや強迫観念を持っているのは自分か、それとも相手か。判断の材料になるものは得てして揃わない。だからこそ、私は無限の自己反省へと誘われることになる。




自由であるかどうかではなく自由にしていく

結局現実においての自由とは行為の前にはないのかもしれない。いや前にあったとしても意味を成さない。なぜなら何かを決める時、それが完全に自分の意志によって行われているのか、はたまた他からの影響を受けてそうしているのかはどうしたって分からないからである。現実において大事なのはたぶん行為をした後だ。行為をした後にそれをいかに自由に「していくか」。それがポイントなのではないだろうか。




自由は後からやってくる

自由とはつまり、その行為を何のせいにもできないということだ。自分一人でその行為の結果を引き受けなければならないということだ。だから逆に言えばそれらをしていくことで、自分は自由に「なる」ことができるのではないか。自由で「ある」かどうかは、問うても問うてもキリがなく、一向に真相は見えてこない。でも自由に「なる」ことは単にその行為の結果を引き受けるだけで良い!自由が後からやってくるなんて不思議な話である。でも事実そうなのだろう。行為の前に自由かどうか分かる術はないのだから、やはりその後の自分の態度が自分の人生の自由度を決めることになるのである。