底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

完璧と不完璧と人間社会

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完璧なものには歪みや欠損がないので、その分だけ実は完璧ではない。完璧であるためには、ほどほどの不完璧が含まれていなければならない。もはやこの世界のお約束とも言える逆説的構造である。歪みや欠損をなくそうと動けば動くほど完璧からは遠のいていく。完璧には不完璧を許しいくこと、不完璧との共存が必要不可欠なのだ。問題は「どの」不完璧なら許されてもいいのか、「どこまで」の不完璧が許されるべきなのか。人間社会はずっとそれを決め損ねているように見える。




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人間は完璧な存在ではないとはよく言われることである。だがこれは本当だろうかと私は疑っている。だってその完璧ではないとは、所詮他人との関係においての話に過ぎないではないか。他人と比較し劣っているから、或いは他人にとって迷惑であるから不完璧とされているだけであろう。関係しないのなら、そもそも完璧も不完璧も有り得ない。それはただそこにあるだけのものとなる。つまりは誰しも最初からただ「完璧に」その人自身であるということだ。




3

他人との関係において生じる不完璧を人はまだ持て余しているのである。そして、それは人間社会が続く限り解決されることはないのだと思う。少しずつ制度が充実し徐々に改善されてはいるものの、それに伴って新たな問題が後を追う形で常に浮上し続けている。改善に向けひた走ることはもちろん大事である。だが、全ての解決はやはり無理があるのだから、そろそろゴールを決め、逆の方向からのアプローチもしていくべきなのではないかと個人的には思う。つまり、冒頭で書いた「どの」や「どこまで」ならいいのか、それを考えてみる必要があると思うのである。




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自分にとって自分は「完璧に」自分という存在である。それを誰しもが心置き無くそのままに体現できる社会が一番望ましいと私は思う。そして、それはある意味では既に実現されていると言える。誰しも常に自分自身であり、都度目の前に現れる選択肢から必ず自分にとって最善であるものを選んでいるからだ。その自由は如何なる人も侵害されてはいないし、そもそも侵害され得るものでもない。しかし、やはり別の意味では全然実現していないと言える。目の前の選択肢がどれもクソである時、選択は単に「その方がマシだ」という意味で為されているに過ぎない。それは全く自由とは呼べず、自分の完璧が損なわれていることになる。だが「マシ」から脱却するのは偏に難しい。自分という存在は今までに世界に存在したことはないのだから、既存の世界と「完璧に」合うのは有り得ない。やはりどこかで合わせるという不完璧の許容が必要になってくる。もしそれをしたくないのなら、自分自身で完璧な世界を創っていくしかない。まさにこの文章によって、今私はそれを行っているところだ。