底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

代替不可能な存在でありたい

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人は根源的に他人にとって代替不可能な存在でありたいという欲求を抱えているのだと思う。人に利用されると悲しくなるのは、自分がその人にとって代替可能な存在であると知ったからであろう。逆に好かれていると嬉しくなるのは、自分の存在そのものを気に入ってくれたのだと思えるからだ。つまりは代替不可能な存在として他人の目に映ったのだということに喜んでいるのである。きっと自分にとって自分が代替不可能な存在であるためだろう。だから他人にも「同様に」代替不可能な存在として認識されたい。

 

 

2

自分にとって、自分の代わりは自明的に成り立たない。いくら自分と同じ容姿同じ考え方同じ立ち居振る舞いをする人がいたとしても、その人は自分の代わりにはなれない。なぜならその人が食事をとっても決して私の腹が膨れることはないのであり、その人が睡眠をとることで私の眠気が覚めるなんていうことも決して起こり得ないからだ。いくら似ていようともその人はどこまでも他人であり、私ではない。これは超重要な事実であろう。だが、この超重要な事実を他の人に伝える術はない。そもそもそんな自分のそっくりさんがいたとしたら、他の人はどちらが私であるのかさえ識別できないのだから。

 

 

3

つまり、悲しいことに私は他人にとって代替し放題の存在なのである。そっくりさんさえ用意できれば、もはや私がいなくなっても他人は気づかない。私はそもそもこの名前でこの容姿でこの性格のこの立ち居振る舞いをする一人の人間というレベルでしか認識されていないのである。その証拠に名前も容姿も性格も立ち居振る舞いも変えれば、すぐさま私は他人にとって別の人となってしまう。実情は私は依然私で、ただ私の内容が変わっただけであるにも関わらず、だ。残酷な話だが、他人は私の存在そのものなど認識すらできないということなのである。

 

 

4

現実には「たまたま」私のそっくりさんがいないので、私は他人に認識されているということになっている。だがそれは偶然的でとても不安定なものだ。だからこそ自分の代替不可能性が大事になってくる。自分のそっくりさんでさえ持てないような自分だけにある特性を持つことで、それによって他人にとって自分が識別され得る存在となることを願っているのである。天才になりたい、自分を愛してくれる人が欲しい、仕事で大きな功績を残したい、自分にしかない個性を出したい、それらは実は全て自分を代替不可能な存在と認めて欲しいということ、ひいては自分の存在そのものをその目に映して欲しいという叫びなのである。

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