底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

なぜならその方がかっこいいからだ

配慮すると損をする

私は基本的に自己利益をそのままに優先させる人は好きである。少なくとも自己利益でないふりをしながら、その実自己利益を得る気満々であるような人よりは正直でいいと考える。だがひたすらに自己利益だけに純粋であるのも考えものではある。最低ラインとしてそのことによって他人が不利益を被らないように配慮する必要はあると思う。しかし、世の中そこまで他人を慮る善人ばかりではないのが現状である。つまるところ、それは親しくもない他人なのだから、その他人が不利益を被ろうとも、自分には何の影響も関係もないのだし別にいいだろ、というある意味でとても自然な考えを持っている人がそれなりの数で存在している。もちろん結果としては、そのような人がそのまま利益をえて得をしやすくなっている。優しさで他人を配慮し、自己利益を我慢した人は結局何も手元に残らない。




それだけじゃ無理

それでも配慮できるのならやはり配慮する方が善いというのは道徳的に自明であるが、なぜその善さを目指さなければならないのかと問われると、もう答えはない。「そうすれば結局は自分が得をすることになるんだよ」という文言から外れた道徳は机上の空論になりやすい。いくら善い行いなのだとしても、もしその行いによって自分が損をするばかりであるなら、人にはそれをする善い以外の動機が必要になってくるのである。




かっこいい!!

では一体何を動機にしたら、自らが損をするような選択を取っていけるのだろうか。自らの損を受け入れてでも、それをするだけの価値をどこに見出したらいいのか。一つの答えとして私は「かっこいい」をぜひ提唱したい。つまりシンプルにそうした方が人間としてかっこいいやん。かっこいい自分になれるのだ。少なくとも私にとって、それは動機として十分な輝きを放っている。




正しいの難点

今の世の中を観察するに、動機にはかっこいいの代わりに正しいが多用されている。その方が人として正しいという主張は至るところで散見される。しかし、正しいは共存できないのが難点である。あることが正しければ、それと矛盾するような他の主張は自動的に間違いだとされてしまう。純粋に自己利益を追求する、それを間違いだとすることは果たして人にできるだろうか。かっこいいはかっこいいだけである。これがかっこよければ、他がかっこよくないということはない。それに種類も豊富だ。色々なかっこよさがあるし、全て共存可能である。お互いに違うかっこよさを見つけ、それを賞賛していくことができる。そうする方が善いとはっきり分かるのに、そうする動機を自分の中に見出せない時、ぜひかっこいい自分になるチャンスだと捉えてみるのはどうだろうか。