底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

他人の承認に如何ほどの価値があるのか

思いやりは別の意味で怯え

何かを安心安全に行えるということに随分な価値が認められているような気がする。他人から軽蔑されることなく、他人から嫌悪されることなく、他人から忌避されることなく、つまりは他人から正当に「承認」されて何かを行いたいと思っている人がとにかく多いのではないだろうか。何が何でも他人の承認の範囲内だけで生きていたいと思う慎ましさはある意味で素晴らしい。それは他人を困らせたくない、他人に嫌な思いをしてほしくないという思いやりの精神なのだから。だが別の意味では、やはり少し怯えすぎなのではないかと思う。他人の少しの不自然さ、少しの配慮不足だけで、自分の存在そのものが否定されたと思うようなら、どう考えてもそれは拡大解釈なのである。




摩擦は必然

他人と関わる上で自分が多少不快になること、或いは他人を多少不快にしてしまうことは避けがたい必然なのではないだろうか。なぜなら自分と他人は別の人であり、それ故に最初から全てを理解し全てが思い通りになるなんてことは絶対に有り得ないのだから。人間と人間が交わる以上どこかには必ず摩擦が生じてしまう。その摩擦はただ今まで身を置いてきた環境や慣れ親しんだ価値観の違いに過ぎない。我々には「対話」というそれを乗り越えるための立派な手段が用意されているのである。




やる方が損なのでやりたいをやらない方をやる

たとえ本当に他人に軽蔑され嫌悪され忌避されたとしても、それだけで生きていけないというような時代ではもうとっくにない。それにあることが自分にとって切実にしなくてはいけないことなら、他人からどう扱われるようになるのだとしても、結局やるしかないであろう。もし最悪の結末を予想してそうなりたくない故にやらないと決断できるというのなら、そのあることはつまり最初から自分にとって切実ではなかったのだ。安心安全に承認された中で、の条件付きでしかやりたくないのなら、それはもはやただの損得勘定であって、即ち承認されていないならやる方が損だ、と自分で判断しているだけである。




「お前の承認とかどうでもいいわ」と思いませんか?

人間のすることに正当なものはない。全ては切実さと自分のエゴから出発するしかなく、他人の自分への態度や言動もまた同様である。他人と一口に言っても、一人一人は全然違う人である。自分のすることをただ無意味に嫌う人もいれば、快く受け入れてくれる人もいるのが当然である。たかだか自分の関わってきた数十人で、全ての他人を分かった気になってはいけない。もしそうではなく、存在する全ての他人に自分のすることを承認して、安心安全にさせて欲しいということなら、それは強欲がすぎるだろう。少なくとも私は絶対に承認できないですね。