底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人生は本当から始まる

人生の始まり

偽りの自分を人から賞賛されても、大抵喜びにはならない、むしろ賞賛されればされるほど、苦しくなっていく一方である。それはもちろん本当ではないからだ。他人に対しても、特に親しい人が自分に偽りの態度をとったと知ると人は悲しくなる。それももちろん本当ではないからだ。本当はそれだけ人にとって大事なのである。他の何が悪くても本当であるだけで価値があり、他の何が良くても本当でないならおよそなんの価値もない、というようなことが人生にはあるのだ。いやあるどころではない。人生はそこからこそ始まるのだと言ってもいい。




本当の自分はないが…

本当の自分というものはない。そもそも偽りの自分なんてものがないからだ。どんなに自分を偽ろうとも、それが自分である限りは自分であるのだから、偽りでは有り得ない。自分は最初からその全てが本当でしかないので、却って本当はないということになるのである。しかし、例えば「あ、今自分を偽ったな」というような思いは存在している。そこにおいて、自分は本当の自分と偽りの自分に二分したと感じられる。が、実際には「"本当の自分"と自分が思っている自分」と「"偽りの自分"と自分が思っている自分」に分かれただけである。だが、本人にとってみれば感じたものがそのまま真実となる。




本当と都合

なぜ人は時に自分を偽ってしまうのか。それはかっこつけたい、自分をよく見せたいなどのエゴの場合もあれば、状況から見て本当の自分を出すのが適切ではないと周りを慮っての場合もある。どちらにしろ、本当の自分よりも偽りの自分の方がよいと判断されたということである。ではそれは如何なる基準による判断なのか。どうして以上の場合には偽りの自分の方がよいものとなるのか。答えは「都合」なのだと思う。その方が自分か他人にとって都合がいいから本当の自分を隠し偽りの自分を作り上げるのであろう。




最も都合のいいこと

だが、それはただのその場しのぎである。確かにその瞬間において最も都合がいいのは偽ることかもしれないが、長期的に見れば見るほど都合は悪くなっていく。どれだけ偽ろうが、本当の自分は変わらずにここにあるのだから。一度偽ってしまえば、いつまでも偽り続けるのでないと、途端に都合は悪くなってしまう。どう考えてもそのこと自体が既にとても都合が悪い。最初から本当の自分でいれば、こんな都合の悪い事態にはならなかっただろう。都合を考えずにただ本当の自分であることこそが実は最も都合がいいことなのだ。なぜなら、自分は本当は本当であることしかできないからだ。人生はそれを心の底から観念することで、ようやっと始まっていくのである。