底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

本能は人生の指針にはなり得ないし他の何にも無理である

本能だからで許される社会はそれはそれで怖いな

人間において「本能」という言葉はもううまく機能していない。食欲や睡眠欲などがそう呼ばれがちであるが、それらを完全に無視するというのは無理でも、一食抜いたり一日眠らなかったりくらいならできるし、時間の調節なども行えるわけだから、そこには既に理性が入り込んでいる。だからこそ、寝坊で遅刻しても「本能だから」という理由で許されるような社会にはなっていない。眠らないことは無理でも、時間の調節は理性でできたのだから、それを怠ったのなら本人が責任を負うのでなければならない。理性の中でほとんどの本能を飼い慣らしている人間にとって、もはや本能とは添え物にしかならないのである。




全ては理性による選択

もっと極端なことを言えば、人は自らに死ぬことができる。生きているそのことだってもう完全な本能ではなく、立派な自分の理性による選択なのである。生き物なのだから生きていて当然というのは人間の場合には通じない。仮に当たり前なのだとしても、その当たり前に従うか従わないかの選択権はやはり自分自身にあるのだから、死を選べる状況下にあるのに今の人生を生きているのなら、それは紛れもない自分の選択の結果なのである。生きていることを度外視して「ともあれ生きていかなければならない」という条件の元に本能を考える場合でも、人間ならやはりある程度「時間」とその「形」に自由が効くようになっている。必ず「今」「この形」でのみ、それをしなければならないのなら、理由はもう本能では説明不可能であり、依然理性の方に求める必要が生じるのである。
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本能の代わりはなんだろうか

本能はそれだけで生きる指針であった。だって本能なのだから、というので死ぬまで生きていけた。だが、人間は今やそうはいかない。本能を理由にするのはもはやただの誤魔化しにしかならない。本能に代わる何かが人生には必要なのだ。人は近年ずっとそれを探しているのではないかと思う。生きる意味やら、生まれてきた理由やら、人生の価値やら、本当の自分やら...。




「人間は自由の刑に処されている」

究極において人は自分の「したい」を叶える必要さえない。必要という概念は人生においてことごとく失敗する運命にある。必要なのだとしても、その必要が自分にとって必要であるかどうかは常に自分の選択の内なのだから。だからここではっきり言ってしまおう。本能の代わりに人生の指針になれるものはなんとびっくり実は何もないのだ。人生においての選択の基準は全て自分自身で決めなければならないのである。そして、その選択の基準に従うかどうかさえも含めて、常時自分自身で決めていかなければならないのだ。「人間は自由の刑に処されている」(言ってみたかっただけなので、使い処が合っているかについてはご容赦ください…。)