底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

快楽と人間の尊厳について

快楽に「溺れる」

快楽というのは単純によいものであるはずなのに、それに浸ることを人は「溺れる」と表現する。つまり何か少し悪いことであるような、ずっとそれではいけないような感じをそこから読み取ることができるのである。快楽に溺れる生は少なくとも快楽のない生や苦痛だらけの生に比べれば遥かによい人生であるはずなのに、それでもそんな道は歩みたくないと思う人がいるのは、きっと人間の尊厳のようなものをそこから感じとることができないからであろう。人として生まれた以上もっと別にやるべきことがある、人は欲望を満たすだけの生き物ではないのだ。

 

 

やるべきことって?

と、多くの人が思っているからこそ今の世の中は快楽至上主義ではないのだろう。でもその肝心のやるべきことってなんだ?というところに、人はいつまでも躓いているようである。もちろん人それぞれで変わってくるものだが、はっきりと私の使命はこれだ!と自覚している人はきっとそう多くない。大抵は分からずに死んでいくのではないだろうか、これで良かった「はずだ」という思いを抱えながら。

 

 

人間の尊厳とは快に負けないこと

一つ確かなのは、快楽を乗り越えること、快楽に負けてしまうわないこと、快楽に流されないこと、やるべきには必ずそれらが含まれているということである。逆に、それだけがやるべきこととして決まっているのだとも言えるはずだ。つまり何か自分が快に感じるとか楽と思うからというのではなく、正しいを基準に据えて行動しよう、たとえ快楽が犠牲になろうとも理性の判断に従って正しく生きていこうとするそのことが、人間としての尊厳なのであろう。

 

 

上手に付き合っていく

快楽はどんな物事にもこびりついているものだ。もちろん、ただその快楽を心ゆくままに享受するのが大切だという時も大いにあるだろう。だがもし人間としての尊厳を持ちたいのなら、やはり全部がそれではダメである。快楽を剥がし物事の正しさを見るには考える以外にはない。ただ一時の快に任せて行動しているのではないか、単に楽だからという理由で何かを蔑ろにしてはいないか。きちんと考え自己反省しない限り、そういうものは一向に見えてこないのである。でも快楽を極端に全て捨てるのは普通の人にはとても無理だろうし、そこまでする必要性もないように思う。乗り越えられそうなもの、流されていて罪悪感を感じるようなものだけをどうにか毎日少しずつでも変えていけたらそれで十分だろう。結局人間は動物であるから、快楽によって何かを選択することからは逃れられない部分もある。過度に排除するのでもなく、浸って溺れるのでもなく、バランスをとりながら上手な付き合い方を覚えていくのが大切である。

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