底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

慣れは恐ろしい

1

人にはとてもとても恐ろしい能力がある。それは慣れることだ。何が恐ろしいかと言えば、まずはその範囲の広さが半端じゃない。一定期間さえ続ければ大抵のことには慣れることができる。今の自分からみれば、「とても無理だよ」と言いたくなるような生き方でも、実際に歩んでみるとそのうち違和感がなくなって、すうすうと進んで行けるようになる。振り返ると自分でもなぜそうなれたのか全く分からない。分からないままで今ここに立っている。慣れとは甚だ恐ろしいものである。それは二つ目には問いを奪う。なぜ今、目の前のこれをするのか。そう問うのをだんだんと封じられる。ゆっくりと思考停止させられて、最後には「普通」という魔法の言葉で蓋が落とされる。ひぃぃ本当に恐ろしい。

 

 

2

慣れとはただ慣れているだけなのである。そこには「〇〇だから」慣れているというような物事を線引していける基準は存在していない。もちろん慣れに至る入口には、人それぞれの事情や趣味嗜好があったに違いない。それが好きだからとか、生活していくのに必要だからとか、最初はそういった理由で物事を始めるのであろう。しかし、どんな理由で始めたとて、慣れはその理由には依存していない。いつの間にか慣れていたという形でしか慣れは語ることができないのである。

 

 

3

慣れているからといってあることが自分に合っているとは限らない。慣れはその意味では感覚の麻痺である。自分に合っていないのに変にそこに慣れてしまったせいで、中々抜け出せないということはよくある。慣れの三つ目の恐ろしい点はこれである。慣れているところからの脱出は、自分の中にあるその慣れの歴史が長ければ長いほど、困難なものとなっていく。よっぽど魅力的な脱出先が既に用意されているのでもなければ、もう全く慣れを捨てることができなくなるのである。

 

 

4

慣れは意志の元において、自分自身で使いこなせるようにした方がいいと思うのだ。つまり自分が慣れたいと思うものにだけ慣れることができるように、使いどころを絞る能力が必要である。当たり前だが人は慣れに対してはまあ鈍感なのだ。自分の中のどれが慣れであるのかさえ時として気づけない。当たり前になりすぎた故に、慣れという形で意識に上がることもなくなってしまうのである。ただ今のことは既に慣れていて、他のことはまだ慣れていないだけの差にも関わらず、問答無用で他を否定したり、必要以上に忌避したり、逆に過剰に今の方にしがみついたり、そういう反応は無自覚で受動的な慣れが生み出しているのである。そういうものは、少しずつでもなくしていく方がよりよい人生を歩めるのではないだろうか。

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