底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

【今週のお題】童心をとり戻そう

今週のお題「復活してほしいもの」

童心




信じられない

今年で二十六歳である。いよいよ一日一日が目まぐるしく過ぎていくのを肌で感じられるようになってきた。もう二〇二二年であるという実感は全くなく、その二〇二二年も一か月と二週間が経とうとしていることがまるで信じられない。よく言われる「年をとると年月が速くなる」の言葉が、アラサーになった今すこぶる骨身に染み渡る。しかし、考えてみるに客観的な時間は私が生まれて今まで何一つ変わっていない。至極当たり前であるが昔の一秒は今でも立派に一秒であり、一分も一時間もその長さはずっと同じである。とすれば、一体なぜ時間は速くなったのだろうか。




何が変わったのか

一般に言われているのは、経験を重ねたことにより、生活に目新しさがなくなり毎日の変化が小さくなったから、のようなことであろう。これは一見納得をもたらしてくれるような気もするが、しかし何か歯痒さのようなものを感じないだろうか。未経験の新しいことは時間が遅く過ぎ、何度も経験し慣れてくるとやがて速く過ぎるようになる、ということには異論はないのだけど、問題は子供の時とて、人は毎日学校に通って、毎日ほぼ同じようなことしかしていなかったではないか。たまに学校行事や家族のイベントがあったくらいで、それだって結局は今と大差ないであろう。同じ通学路を通り、同じ学校に通い、同じ人たちに会い、同じような放課後を何度も送ったはずだ。大人になるとそれが仕事に変わるだけで、毎日の構成的に大きな違いはない。それなのに、子供の時の時間はゆっくりで、今は速い。




見えなくなる

正確に書くなら事態はたぶんこうである。年をとると毎日の変化が小さくなるのではなく、毎日の変化が凝り固まった経験のせいで小さくなっていると「思う」ようになるのだ。人は大人になればなるほどに自分なりの生き方や知識体系を構築してしまい、そのフィルターを通してでしか世界を見られなくなる。どんなことでも既知のものとの関連で理解するようになって、すぐに物事をよく知っている慣れた仕方で分類処理してしまう。つまり、目新しさが「実際に」なくなっているのではなく、年をとると段々目が濁って見えなくなるのである。




童心をとり戻そう

大人になっても、たまに時間が遅く過ぎる日がある。それは楽しみがある日の前日である。楽しみは言い換えればワクワクであり、つまりは未経験なものを得られるという期待である。さながら夏休みが始まるのを待つ子供のように、人は何度も時計を確認し、まだかまだかと心の中で繰り返し唱える。しかし、実は毎日がそうなのではないか。未経験なものなら、常にそこら中に転がっているはずだ。月並みな表現だが、人生に同じ日はありはしない。今日は昨日と必ずどこか違っている。きっと大人も目をよーく凝らせば、その違いが見えるのではないだろうか。童心に帰り、あの頃の気持ちを思い出して。

f:id:kabiru8731:20220212211150j:plain