底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分は世界であり一人の人間であり神である

三つ目は現代ならでは

ざっくり言って自分には三つの世界がある。一人でいる時の世界、親しい人や顔見知りといる時の世界、全く顔も名前も何も知らない人に向けて発信している時の世界、の三つである。昔インターネットがなかった時代には、きっとこの三つ目の世界を持っている人はほんのひと握りであったはずだが、今ではもう持っていない人を見つける方が難しいだろう。時代は本当に進歩したものである。この三つを仮にそれぞれ第一人称の世界、第二人称の世界、第三人称の世界と呼ぶことにして、その違いを見ていきたい。

 

 

第一

第一人称の世界は自分しかいないのであるから、それは逆説的に自分のいない世界だということができる。なぜなら、そこでは自分とはそのまま世界であり、世界とはつまり自分そのものだからである。自分は世界の一部でありながら、逆に世界の全てが自分の目の中にこそ存在している。とても不思議な循環的構造を存分に味わうことになる。

 

 

第二

第二人称の世界は自分と他人の世界である。自他の対比で存在する時、私は意味の存在というつまりは普通の人間になる。親にとって私は娘の意味を持った人として存在しており、上司にとっては私は部下の意味を持った人である。他人は私の実存を認識できないので、私は意味を脱ぎ去ることができず、常に他人の要求に答えたり、答えなかったりする何かしらの「役名」を与えられた一人の人間として居続けなければならないのである。

 

 

第三

第三人称の世界では、自分は神である。もちろんあくまで比喩的な表現なのだが、発信者は常に「世界を創っている」のだ。そして、その自分が創り上げた世界に鑑賞者という名の人間(つまりは他人)が入ってくるのである。鑑賞者はその世界を鑑賞したり、感想を述べたりできるだけで、その世界を直接的に変えるなどは決してできない。世界はいつも発信者の意のままであるというその意味において、ここではやはり自分は神なのである。

 

 

全部真実なので全部大切

世界であり、一人の人間であり、神である。私にとってこの三つはどれも欠くことのできない大切な自分の要素である。なぜなら、私が死ねば世界も同様になくなるのが真実だからである。なぜなら、私が死ぬことは周りにとっては一人の見知った人間が死ぬことに過ぎないのがやはり真実だからである。なぜなら、私が死んでもこのブログの世界は依然インターネットの海に残り続けるだろうということも結局真実だからである。どれか一つが自分の真の顔だというのでは決してない。どれもが自分の真の顔であるからこそ、やはり三つともを使い分けて生きていくしかないのである。

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