底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

「ひとり」は断片の寄せ集めに過ぎない

私が私であり続けるのは謎によっている

ブログの向こうにいる人は私がどこの誰であるかを知らない。私がどこの誰であるかを知る人はこのブログの存在を知らない。これは私にとってとても大切な境界線である。同じ人にたくさんの私を見せるのは端的に疲れるからである。人間誰しもに色々な側面があり、その側面同士が矛盾に満ちていることも普通にあり得る。だが、そのことを腹の底から納得するのは難しい。人は大抵、自分も他人も生まれて生きて死ぬまで「同じ」であり続けると思うからである。それはある意味では正しい。私は死ぬまで私であり続けるし、他人も死ぬまでその人であり続ける。だが、私が私であり続けるのはその内容に依拠しない。確かに私は死ぬまで「なぜか」私であり続けるが、私の考えや行動や他の様々なものはそのこととは関係ない。例え中身がどんなにバラバラで矛盾に満ちていて統一性がなくとも、依然私は私である。それは謎にそうなっているだけで、決して統一性がある「から」私が維持されているのではない。




私は本当に「ひとり」なのか

同一性、つまり生まれて生きて死ぬまで同じ内容であり続けることに人はやたら拘ってしまう。同一性がないことは往々にして「自分」のなさとされているからである。度重なる言動の不一致や支離滅裂とした態度をとる人は自分がない人と評され信頼を失いやすい、その上はっきり言って不気味でさえある。だが、私はこれはひどく自然な状態であるように思う。人はあまりにも「ひとり」という単位を信じすぎているのではないか。「ひとり」という単位は、時間を過去から今そして未来へ向かって一直線に伸びているものと捉えて初めて成立する。しかし時間とは本当にそのようなあり方をしているのか。ともあれ事実として言えるのは、我々は「常に今にのみ」存在しているということだけではないだろうか。そうであるなら、「ひとり」とは単なる「それぞれの今にある断片的な自分」の寄せ集めに過ぎないであろう。




心配しなくてもバレないよ

断片的な自分を一カ所に集め過ぎない。似ているもので一つの小さな自分をつくり、それを何個か持つようにする。こっちにはこの自分を見せて、あっちには違う自分を見せる。そうすれば自分の全部を統一するという重労働からは解放される。自分同士でおもいっきり矛盾していても、見せる境界線さえ保っていれば誰にもとやかく言われることがないし、自分も気に病まずに済む。ブログの向こうにいる人にはこのブログを通した私だけを、現実に見知っている人には現実を通した私だけを。二つが「同じ」私であると、どうか永遠にバレませんように。

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