底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

生きているとは何もしないことだ

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人が生きているということには何が必然的に含まれるのか。食べたり、眠ったり、排泄したり、これは身体からの要請であるが、身体が今の形態であるのは偶然に過ぎない。家族や友人と接したり、働いたり、これもその時の社会的な価値観や理念や法によって今の形であるだけなので、人の生にとってはやはり必然とは言えない。必然なのはつまるところ生きているそのこと、即ち自分が存在するというそれだけである。他のものは全て付帯的であり、言い換えれば、ただのついでなのである。

 

 

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生きていることと生きていくことは全然違う。人が生きていくためには食べる眠る、周りの人の助けなどは必要不可欠であるが、生きていることにとってはどれも肝要なものにはなり得ない。私たちは必ず生きているから生きていくのであって、その逆では有り得ない。生きているにとってみれば、必要なのはやはり自分の存在だけである。自分が存在していればともかく生きていることになる。ではその自分が存在するとは何なのか。これは難問である。誰しも気づいた時には自分は既に存在していたのだから、それ以前に遡り存在の仕方を問うという作業は途方もない。

 

 

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だから問を変えて、自分が存在するとは何なのかではなく、何を「する」ことなのかと問うてみる。自分が存在する世界としない世界では根本的に何が違うと言えば、それは「実際」だろう。つまり叩かれた時に「実際」に痛む人、目から「実際」にものに見える人がこの世界にいるかどうかである。もちろん誰しも叩かれたら痛むに「違いない」し、目からものが見えているに「違いない」が、その中で「実際」に痛く、「実際」にものが見えるのはやはり自分だけである。だから実際があることが即ち自分が存在するそのことになる。そして実際が何によって実際であるのかは、ズバリ認識だろう。認識されることで初めて実際は実際であることができるのだから、自分が存在するとは認識を「する」そのことなのである。

 

 

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自分が存在するにとっての必然が、認識をすること「だけ」であるとしたらとんでもないですね。思ったり考えたりしているのも実は自分ではなく、それを認識している方こそが自分であるなら、人生はなんと虚しいのであろうか。しかしこれほど分かりやすくて楽な捉え方もない。即ち、生きているとは「何もしない」ということであるのだから。これは何もしないで生きていても「いい」のだと解釈することもできる。ある意味で神からのこの上ない許しである。

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