底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

排除したいものは認識しなければいい

アウトオブ眼中ってもう死語かな

何かを排除したいと考えた時、一番手っ取り早い方法はそれをそもそも認識しないことである。わざわざ実際にその存在を取り除くよりも、認識しなければそれだけでないことになるのだから、こんなに楽な手段はない。それができたら苦労しないんだよという言葉が方々から飛んできそうだが、あくまで仕組み的な話としてここは聞いていただきたい。現実は一旦置いといて仕組みだけで考えるなら、自分がそれを避けたり、それ自体に何か直接アクションするより、明らかに眼中に入れないのが一番労力を使わずしかも確実であろう。だってつまりそれは何もしてはいないということなのだから。

 

 

方向は選べる

認識はほぼ受動的なものである。ある対象を認識するかどうかなんてことは人には選べない。勝手に自分の認識の内に入れ代わり立ち代わりものが現れたり消えたりしているだけであって、それらは自分が望んで認識しているのではない。だから何か特定のものを自分の意志で自分の認識から外すことも当然できるわけがない。ならやはり認識しないという一番楽な方法は諦めるしかないのだろうか…?いや、まだ望みはあると思う。人は認識する対象を選べなくても、認識する「方向」は選べるはずであるのだから。

 

 

勝手にいなくなってくれる

方向とは簡単に言えば、何か別のものに対する認識を意識的に強めるのである。それによって、排除したいものに自分の認識が向かないようにするのだ。何を認識するかは人には選べないけれど、ある物に対する認識の強さは端的に選ぶことができる。注視するかボーッと見るか、そのくらいの選択は人間に許されているのである。だからそれを上手く活かして、何か他のものをじーっと注視する。そうすれば自然に視界は狭くなって、排除したい見たくないものは自動的にフェードアウトしていくだろう。

 

 

好きを見つける

何か他のものとはもちろん自分の好きや興味のあるものが良いだろう。人生に好きがあるだけで、他のことは結構どうでも良くなるはずだから。というより他のことに時間や労力を割くのが勿体ないと感じるようになるだろう。その好きを見つけるのがめんどくさいと言われれば、確かにそうかもしれないが、でも排除したいものをどうやって排除するかと考えるより、自分の好きはなんだろうかと考える方が圧倒的に楽しくてワクワクしないだろうか。それに排除したいものは一度片付けても、きっと生きてる限りはまたずっと新たに目の前に現れ続ける。それを都度片付けていく人生と、今少しだけ大変な思いをして自分の好きを見つけ、これから先の一生排除したいものを二度と認識しなくて済む人生。はて、どちらの方がお得なのだろう。

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