底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

何もないを目指している

何もない

何もないという状況ほど至極なものはない。何も苦痛がなく、何も心配することなく、何にも恐怖しなくて済むのが素晴らしいのはもちろんのこと、何も欲しがらず、何も望まず、何もしたいことがないというのも最高なことではないだろうか。それはつまり、欲しがる以前に既に手元にあり、望む以前に既に叶えられていて、したいと思う以前に既に満足が与えられているということなのだから。とても理想的であるはずだ。人が言う幸せも、即ち何もないのことではないか。気兼ねなく喜びを喜べて、気兼ねなく楽しさを楽しめる。そういう目の前の好事と自分を隔てるものが何もなく、心の底から堪能できる瞬間こそが幸せと呼ばれるのであろう。

 

 

何もないが理想

人は何もないを目指して生きているのではないだろうか。理想的な世界とは誰しもが何も無い人生を送れることなのではないか。誰も嫌な思いをせず誰も犠牲になることなく、全ての人が自分の望む通りに生きられるとはつまりそういうことであろう。いや自分は何かがあることをこそ望んでいるという人でも、そのあるはないを導くためのあるに過ぎない。ニキビ軟膏の存在を願う人はニキビをなきものにするために、コーヒーを望むものは、それに満足して何も不満がない状態の自分になりたいだけであろう。

 

 

死はチート

死から考えても、何もないに越したことはない。何かがあってもそれをあの世に持っていくことは決してできないのだから、必ず未練や後悔となって残ってしまう。何もなければそんなことにはならない。きっと穏やかで静かな最期を迎えられることだろう。というかそうでしか有り得ない。だって何もないのだから。何かがどうなるなんてことは起こり得ないのである。自らに死ぬことは何もないに突入する最短の道だが、恐らく最適解ではない。なぜならそれは強制終了なのであって、解決ではないからだ。

 

 

あるが生まれてしまう要因

自分だけが世界からはみ出しているのである。世界の全てを認識する存在であるから、世界の中にいることができない。人には根源的にその自分を抹消したいという欲求がある。ただ普通に世界の中の住人として、普通に一人の人間として生きていきたいという思いがある。或いは逆に世界を認識するものとしての務めだけを果たしたいと思うこともある。一人の人間である方の自分をこそ徹底的にとりやめて、ただただ認識に専念していたいと願うことがある。どちらもとどのつまり同じことである。即ち何もないでありたいのだ。二つの存在を行き来するからこそあるは生まれてしまうのである。

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