底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分が何をしているのかを知るのは自分だけ

天と地ほどの認識の差

今自分が何をしているのか。それは他人には分からない。座ってボーッとしているように見えても、実は深く人生について反省しているのかもしれない。ベッドに寝っ転がっているだけに見えても、実は負の感情と必死に戦っているのかもしれない。他人に見えるのは常にその外側で、内側で何をしているのかを知るのはいつも自分だけである。だから「何休んでるのよ」と他人からは言われてしまうような格好の時でも、その実本人的には全く休んでいないということは往々にして有り得る。天と地ほどの認識の差がそこには常に存在しているのである。

 

 

生きやすさのため

他人からどう見えているのか。これを完全に蔑ろにするのは生きていく上で不利になる。体裁はやはりある程度は保っておいた方が無難である。その意味で、できるのなら自分だけが知っている今自分のしていることとは別に、他人に求められるような形のある行為も並行してやるのが良いだろう。その方が他人との間に必要以上の認識の齟齬は生まないので、無駄な衝突を避けることができ、自分的にも生きやすいはずである。

 

 

真実は真実

だが自分にとって真実であるのは常に自分だけが知っている内側の方である。他人からどう見られていようが、自分がしているのなら、それはしているのである。反省しているのなら反省しているのだし、戦っているのなら、戦っているのである。自分しか知らないのだとしても、その真実が偽物になったり、実は存在していないなんてことにはならない。休んでいるようにしか見えなくても、サボっているようにしか見えなくても、それはそう見えるだけである。どんな時も、この事実と見てくれが逆転することは絶対にない。どう見えるかは所詮どう見えるかであり、それが自分の本当にしていることを越えて真実に成り代わるなんてことは起こり得ないのである。だから、そうか自分は休んだりサボっているだけか、などと他人の視点を持ち込んで、自分を測るのはただただ間違いだと言える。

 

 

真実は手放せない

他人から見た自分なんて、全然自分の本質を捉えてはいない。自分が今何をしていて、何を思ったり考えているのかは自分だけがちゃんと知っている。その真実は手放そうとしても、手放せるものではない。時に自分を客観的に見るのも大切だが、それはあくまでその方が生きやくなるという場合に限った話であり、真実を覆い隠してまでやることではないのである。真実は自分だけが知っている。そして、それが唯一の真実なのだ。

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