底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

雰囲気はすごい

雰囲気ってすごい

人は誰しも雰囲気を身に纏っている。言語化はできないけれど、「その人っぽさ」としか形容できないものがとにかく存在している。何がそう思わせるのか、一体どこがぽいのか、うまく言えないのになんとなくその人なのだと分かる。これ本当にすごいことだと思う。




判断は雰囲気

人は一般に他人のことは性質の集合体として認識しており、個人の識別もそれで行っている。この人は、この名前でこの記憶でこの性格でこの容姿であるというように、いくつもの性質を掛け合わせた一つを「その人」として認識し、それによってそれぞれの他人を見分けているのである。だが具体的にどれが欠ければ或いはどれが大きく変われば、その人をその人として認識できなくなるのか、その人を別の人として認識してしまうかは不明である。一つをとりかえただけで全然その人だと分からなくなってしまう可能性もあれば、全ての性質をとりかえても、依然その人をその人として認識できる可能性もある。いずれにしろ、その判断は雰囲気によって為されることになるだろう。まだそこに以前の雰囲気が残っているか、という曖昧極まりない基準でしか、我々にはそれを決める手立てがないのである。




っぽい

死も同じだ。我々が人を死んだと判断する基準は「死んだっぽい」でしかない。心臓が止まれば、脳が動かなければ人は死んでいるのか、実際のところは誰にも分からない。死は全く論理的な導きなどではなく、生きている人の感覚に頼った不確かなものである。やはり雰囲気なのだ。我々は雰囲気で人の生死を選り分けている。とにかく「もう生きてはいないっぽい」を死んだことにしているだけである。




先に雰囲気で

人の大部分の判断は雰囲気に任せているのではないかという気がしてきた。「よさそう」「自分に合いそう」「危ない感じがする」「ダメっぽい」。理性的に考えるより先に、まず雰囲気的にどうかということを肌感覚で察知しているのではないだろうか。その後でどうしてそう思うのかと、理性で理由を付け足していく。理性の仕事は判断というよりは雰囲気の整理に近いのかもしれない。




雰囲気は先立つ

雰囲気はたぶん出そうとして出るものではない。ただ自然にそこに漂っているからこそ雰囲気になり得る。どこから出ているのかとか、どういう風に出ているのかとか、そんなことは全然言えない。ただそうとしか感じられない何かがあるのだ。雰囲気としか形容できない独特な何かが。雰囲気はものの内容よりも重要である。そのものの内容が以前と大して変わらなくても、雰囲気だけを失うことがあるし、失えばそれだけで我々にとってそのものはもうそのものでなくなってしまう。逆にものの内容が全て変わっても雰囲気だけが残っていることもあるし、雰囲気さえ残っていれば我々にとってそのものは依然そのものであり続けるのである。