底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

全部無駄だからこそ問う

問うことは贅沢なのか

人生が何であるかと考える営みは、暇だからできるのだとよく言われる。経済的な余裕、精神的な余裕があるからこそ、そんな浮世離れした答えもないようなことをネチネチといつまでも考えられるのだと。これは本当にその通りなのだろうと思う。明日の寝床も食料も確保されていない、今日を生き切ることさえ叶うかどうか分からないような状況なら、きっと目先のことでいっぱいいっぱいに違いない。何がともあれとにかく無事に生き抜かなければ、そんなようなことを思うだけで、そのうち一生を終えることだろう。人生を問うという作業はまったく環境に甘えた贅沢品である。

 

 

違いはなんだろう

しかしその環境があるからといって全ての人が人生を問うのかと言えば、そんなことはない。どんな環境にいても、人生を問わずにして幕を下ろす一生こそむしろ在り来りである。人生を問う人と問わない人の間にある差は環境だけではない。ではしかし他に何があるのか。興味関心の差か、はたまた価値観の差だろうか。どちらもあるのだと思う。根本の違いはたぶん「どれだけ問うたところで分からないのだから問うだけ無駄」と考えるか、「分からないので少しでも分かるように問うていくのが面白い」と考えるかだ。

 

 

問うことだけが無駄なのか

問うだけ無駄というのはどこまでも事実である。絶対に分からないと分かりきっているのだからこれは当たり前だ。しかし、それならば人生をただ歩むこと、そういった問いを一切問わないことは無駄ではないのだろうか。どうせ死んでしまうのは皆同じである。問うことだけが無駄であるのではない、人生そのものが最初から無駄なのだ。だからあえてその中の何か一つを無駄だと言って拒否するのは、実はただそれをしたくないというだけである。無駄だからしたくないのではなく、したくないからこそ無駄になるのだ。

 

 

無駄だからこそ

自分が自分と呼んでいるものが何であるのか、生きているとはどういうことなのか、現実とは、時間とは、人生とは、そういった一切を我々は常に知らずにして生きていて、そしてやがては知らないままで死ななければならない。こんなに不思議でワクワクできて面白いことはない。同時にこんなに虚しく無念で苦しいこともない。問うても問わなくてもこれはきっと同じである。人生を問うことは人生にとってまったく必要のないことだ。そもそも人生そのものが無駄であるために、必要という概念さえ必要とはされていないからだ。しかしだからこそ、この全く無駄と言わざるを得ない人生とは一体何なのか、なぜそんなものが生まれ今こうしてあるのかという問いは、どんな時どんな時代にも必然的に発生するものではないだろうか。

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