底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

自分への拘りはない方がいい

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拘りというのはなければないほどいいのだと思う。それは往々にして自分を苦しめる種にしかならないからだ。拘りの中でうまくやれている時はいい。その時にはむしろ一貫性がありスタイルが確立されていて素晴らしいなどと好評をうけるだろう。しかし人はそんな単純な生き物ではない。どんな拘りであれ、拘りからはみ出してしまう時、拘りと矛盾する思いを抱く時は長い人生の中でやがて必ず訪れる。散々積み上げた後でそうなってしまったら、それを捨てるのはとても困難になる。逆に拘りの中に無理やり自分を押し込めようとする動きが始まってしまう恐れがある。




2

自然と拘ってしまうようなものがある。出かける時の身なりであったり、一日の中でのルーティンであったり、人生全体の傾向としての拘りがあったりするが、それらは別に悪いものではない。拘りはないことに越したことはないが、だからこそ、ないということにも拘るべきではない。少々あるくらいがむしろ丁度よく、それこそが拘りのない状態と言えるのである。何か一つの物事を極めたいという意味で拘るのも悪いことではない。それくらい一つのことに熱中できるのは大変に喜ばしく、拘れば拘るほど、向き合う時間が長ければ長いほど、より高みへと登っていけるに違いないのだから。




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問題なのは自分自身を縛ることになる意識的な拘りだ。つまり自分の「存在の仕方」を拘ることである。それは自分の限界を決めてしまいかねない。このブログで何度も書いていたことだが、自分自身の存在は気づいた時には既にあったのである。何かしら確実な方法によってではなく端的な不思議によって、今ここにこうして存在しているのだ。そこには「仕方」などというものはない。そのなさが気持ち悪くて不気味だから、人はかえって仕方を構築しようと動いてしまうのである。自分への意識的な拘りはそれによって生じた現象の一つに過ぎない。




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厳密に言えば拘ってもいい。だが拘ることに拘わってはいけない。いつでも捨てられる拘り、一種のゲームとしての拘りなら逼迫感がないので、そこにゆとりを持つことが出来る。自分自身が楽しめる拘りであるべきだ。そうでなければ拘りはただ無駄に自分を縛り上げ、無駄に自分を苦しませ、無駄に自分の限界を決めてしまうものになるだけである。それすら楽めるドMならいいが、違うのならやめられる拘りはやはりできるだけやめた方がいい。自分の内容は移ろいゆくものである。決して一つの決まった形に収まり続けられるものではない。