底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

人付き合いは難しい

難しい

人付き合いの難しさの原因は色々あれど、 一つの大きな前提として、みんながみんな違う人間だから、というのがあるだろう。何に喜び、何に悲しみ、何に怒りを覚え、何を失礼に思うか、全部が全部人それぞれだから、どんなに自分がが誠意をつくしたつもりでも、相手を不快にさせてしまうことがあるし、自分と相手の立場が逆の時でも然りだ。そのどうしても避けられない摩擦が、人付き合いを難しく感じさせる。誠意を限りなくつくしても他人を傷つけてしまう時があり、逆に他人の悪意のない言葉で勝手に自分が傷ついてしまう時もあるのなら、どうしたらいいのか分からなくなるのは当然である。

 

 

信念の違い

思うにこれは自分の基準で他人を考えているのが全ての元凶である。例えば「これをするのは失礼だ」と自分が思うようなことがあるとしても、それはただの自分の信念である。そこから、「だから他人がそれをすれば、自分に失礼を働いたことになる」と考えるのは偏に思考の飛躍だ。他人には他人の思いがあり、他人の信念がある。ここで大事なのは他人自身がどんなつもりでその行為をしたのか、だ。極端な行為は除くとしても、もし相手に失礼の意図がなかったのなら、それはただのお互いの信念の違いに過ぎず、失礼でもなんでもないのである。

 

 

渡す時と受け取る時

相手に誠意を渡す時には自分の信念の形で渡し、相手からの誠意を受け取る時には相手の信念の形を尊重する、という形式を私はぜひ提唱したい。相手の信念の形はそもそも見えるものではない。だから渡す時には下手に相手を探りにいくよりも、自分の信念の形で精一杯伝えた方がより誠意があると思う。もちろん傲慢に押し付けろという意味ではないので注意。逆に受け取る時は、相手の信念の形が見えないからこそ、その行為がどんな意味なのかを勝手に決めず、ゆっくり理解していく方がやはり誠意があると思う。もちろんだから相手の行為を何でも無条件に受け入れろという意味ではないのでこちらも注意。

 

 

信念の原材料

それでも避けられない摩擦は依然あるだろう。どうしても割り切れないようなもどかしさや悔しさに苛まれることがあるだろう。違う他人同士の付き合いなんだから仕方ない。という一言で片付けてはいけない事態や、片付けられない思いがきっと、これまでにもたくさんあったし、これからもたくさん生じるに違いない。しかし、人と関わるとは、つまりそういうことであろう。人と関わって生きていきたいのなら、割り切れないことは必ず自分の身に降りかかる。だが実はその割り切れないモヤモヤこそが他人から自分自身を区別し、自分のアイデンティティを確立させているのではあるまいか。反省してみれば分かることだが、自分の信念の原材料とはそれでしかないはずだ。

f:id:kabiru8731:20230125065315j:image