底辺人間記録

底辺人間の行き場なき思考の肥溜め

誠意についての諸々

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何か悪いことをしてしまった時、それを黙っているのと告白するのでは、明らかに告白する方が「善い」であろう。逆に何か善いことをした時には、今度は善いことをしたのだと誇示せずに黙っている方が端的に「善い」ことになろう。しかし改めて考えてみるにこれはとても不思議なことだ。だって告白しようがしまいが悪いことをしたという事実の方は少しも変わらないし、誇示しようがしまいが善いことをしたという事実の方も少しも変わらない。それをした後の本人の態度によって、悪事がちょっぴり善くなったり善事がちょっぴり悪くなったりするなんてことが、どうして起こり得るのだろうか。

 

 

2

それが人の誠意というものだ。と言えばなんとなく納得感はあるけれども、しかしやはり先程の問に立ち返ることになる。誠意があっても悪いことは依然悪いのだし、誠意がなくとも善いことが依然善いことであるのは自明である。善い悪いとは人々にもたらす快と不快のことなのだから、それは外的で結果的なものだ。だから、人の誠意などそれらには全く関係しようがないのである。

 

 

3

そもそも誠意とは自らの内側からしか見えないものだ。世の中には確かに端的に誠意があるように感じられる行為もあれば、逆に誠意の欠片もないとしか思えないような行為もあるけれど、それは端的に「そう感じられたり思えたり」するだけで、そこから「実際に」その行為に誠意があるとかないとかと結論づけることはできない。しかしそれでも人は無限に行為から誠意を読み取ろうとする。悪いことの告白には誠意があるとし、善いことの誇示には誠意が欠けていると判断せずにはいられないのである。そこに実際に誠意があるかどうかなどはもはや関係なく、自分がどう感じれるかということが全てであり、それがむしろ「実際」へと成り代わってさえいる。

 

 

4

だから誠意があるように見える行為を全く誠意を込めずにするなんてことがこの世では普通に有り得るし、逆に誠意をたんまり込めて誠意がないように見える行為をすることも全く可能である。悪いことを告白したとしても、それは単に面倒くさくなってそうしたのかもしれないし、善を誇示したとしてもそれは単に誠意の元に行われた一つの別の善行かもしれない。内実は本人にしか分からないのだ。誠意は端的に本人が込めるか込めないかでしかないものだが、それでも人は行為の形によって誠意の有無を判断しようとする。だから数多の誤解が生まれることになるし、それを逆手にとって誠意など微塵も込めずに特定の形の行為だけをして誠意があるかのように見せる人も出てくる。だが例えそうなのだとしても、人は誠意の概念を捨てられない。自分の誠意をどうにか示したいと思い、相手の誠意をどうにか感じとりたいと思ってしまう生き物なのだ。誠意を最後の頼みの綱として、許したり許されたいと望まずにはいられないのである。

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